市川右太衛門 いちかわ うたえもん

映画演劇

掲載時肩書俳優
掲載期間1984/05/30〜1984/06/24
出身地大阪府
生年月日1907/02/25
掲載回数25 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
小学校
学歴その他尋常高等小
入社家・鉄工所
配偶者近所娘
主な仕事青年歌舞伎、関西歌舞伎、映画界、独立、大映、東横、東映、S33:11億3千万観客、
恩師市川右団次
人脈マキノ省三、長谷川一夫、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、阪東妻三郎、大江美智子、宮城千賀子、山田五十鈴、マキノ光雄
備考北大路欣也次男
論評

1907年2月25日 – 1999年9月16日)は大阪生まれ。映画俳優。戦前・戦後期の時代劇スターとして活躍し、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。歌舞伎役者から映画俳優となり、美剣士役で人気を得た。当たり役は『旗本退屈男』の早乙女主水之介で、30本のシリーズ作品を生み出している。戦後は片岡と共に東映の重役スターとなった。1966年に引退。映画主演総数は300本を超える。

1.無声映画の時代
私がマキノプロに入った大正14年(1925)は、日本映画が変わりつつある時期だった。当時の撮影日数は一本20日足らずだったと思う。何しろ私の主演作だけで年間11,12本、それも前・後編、1~3編というシリーズ物が多いから大変だった。一本撮っている間に次の作品の打合せ、衣装合わせがどんどん進行していく。
 例えば朝8時に会社を出発し、ロケ現場で撮影、昼食ののち二時間ぐらい撮って四時ごろ撮影所へ。ちょっと一息入れた後、今度はセット撮影―という具合だった。封切はあらかじめ決められているから、撮影は徹夜になることも珍しくなく、出来上がって、あちこちカットして、試写、オーケーとなると、その2,3日後には封切だった。こんな軽業ができたのも、無声映画で音を入れずに済むことと、監督、カメラマンから裏方、脇役まで熟練者ぞろいで、テンポよく撮り進めていくことができたからだった。

2.旗本退屈男の誕生
私が独立プロを設立した際、お客さんに理屈っぽい映画よりも楽しんで見てもらうのが使命と考えていた。ある日ひょっと本屋に入ると「旗本退屈男」という本が目に入った。旗本というと水野十郎左衛門など悪役の印象が強かったのだが、これは旗本で退屈している男が主人公。面白そうだと思って、会社の企画部門に検討してもらった。映画で「面白そう、いいですね」がでたので、すぐさま原作者の佐々木味津三さんに映画化の許可をとった。
 退屈男の第1作は昭和5年(1930)に封切ったが、私は主人公の早乙女主水之介(さおとめもんどのすけ)のキャラクター作りに没頭した。まず退屈男の諸羽流正眼崩し。原作にはどう構えてという記述はない。額の傷にも工夫をした。剣の構えからメーク、衣装まで、スタッフの意見を聞きながら退屈男像をつくりあげていったが、その際に役立ったのは、子供のころからの踊りで鍛えた身のこなしであり、歌舞伎の世界に残っている型の知識だった。

3.東映の黄金時代
東映の設立当初から、毎年、お正月とお盆の作品は片岡千恵蔵さんと私の主演作と決まっており、二人が牽引車となって会社を引っ張って行った。これに大友柳太郎、月形竜之介の二人、さらに中村錦之助、東千代之介、美空ひばり、伏見扇太郎、大川橋蔵らの若い諸君が加わって、東映は創立以来わずか5年の31年(1956)に、松竹を抜いて業界第一の業績を上げるまでになった。
若手スターは昭和29年、30年ごろに中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵らの若手が、次々に東映の専属スターとして入社してきた。彼らはズブの素人ではなく、錦之助、橋蔵君は歌舞伎の出身、千代之介君は俳優ではないが踊りをやっており、一応芝居の基礎はできていたから、早く人気スターになった。
一方、28年から始まった東映ニューフェースの中からもスターが育っていった。第一期の中原ひとみ、時代劇では第3期の里見浩太朗、大川恵子、桜町弘子君らが入ってきた。印象に残っているのは里見君と、第4期の山城新伍君だ。里見君はマキノ光雄君や製作部の諸君が目をつけ、そろそろ役を付けたらどうだと言い出し、「いいだろう」と答えた覚えがある。こうした若いスターが続々スクリーンに登場し、「時代劇は東映」という黄金時代を迎えたのだ。

いちかわ うたえもん
市川 右太衛門
市川 右太衛門
本名 淺井 善之助
別名義 市川 右一
生年月日 (1907-02-25) 1907年2月25日
没年月日 (1999-09-16) 1999年9月16日(92歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪府大阪市西区
死没地 日本の旗 日本千葉県館山市
職業 俳優
ジャンル 映画
活動期間 1925年 - 1964年
活動内容 1925年:歌舞伎界からマキノ・プロダクションに入り、映画デビュー
1927年市川右太衛門プロダクションを設立
1936年松竹太秦撮影所に入社
1942年新興キネマから大映に移籍
1949年東横映画に入社
1951年:東横改組により東映に移籍
1966年:東映退社
著名な家族 実兄:山口天龍全勝キネマ設立者)
次男:北大路欣也
主な作品
旗本退屈男』シリーズ
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市川 右太衛門(いちかわ うたえもん、1907年2月25日 - 1999年9月16日)は、日本映画俳優。本名は淺井 善之助(あさいぜんのすけ)。愛称は「右太さん」。次男は俳優の北大路欣也

戦前・戦後期の時代劇スターとして活躍し、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎大河内伝次郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[1]歌舞伎役者から映画俳優となり、美剣士役で人気を得た。当たり役は『旗本退屈男』の早乙女主水之介で、30本のシリーズ作品を生み出している。戦後は片岡と共に東映の重役スターとなった。1966年に引退。映画主演総数は300本を超える。

  1. ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
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