山口誓子 やまぐち せいし

文芸

掲載時肩書歌人
掲載期間1966/08/30〜1966/09/23
出身地京都府
生年月日1901/11/03
掲載回数25 回
執筆時年齢65 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他三高
入社住友本店
配偶者浅井啼魚娘 梅子
主な仕事父母の系図自慢、樺太小学校、東大俳句会、ホトトギス→馬酔木、「天狼」主宰、
恩師佐々木惣一、高濱虚子、斎藤茂吉
人脈親戚(時国益夫、長谷川周重)、 川田順、中川小十郎、山本有三、斉藤茂吉、水原秋桜子、大宅壮一、日向方斉、
備考祖父の庇護で育つ
論評

1901年(明治34年)11月3日 – 1994年(平成6年)3月26日)は、京都府出身の俳人。高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は病気療養や新興俳句弾圧、敗戦などの経験を経て、自然物との対峙によって己を確かめるような句風に変化。「天狼」では「酷烈なる俳句精神」を実現したいと表明し徹底して写生構成・即物具象を説いた。また「出発の言葉」の「俳句の深まりが、何を根源とし如何にして現るゝかを体得した。」(「天狼」創刊号)から「根源俳句」を提唱した。 晩年は自身の俳句を芭蕉を継承するものとして、写生、取り合わせ、客観描写を強調した。この「私の履歴書」では家系や祖父業績が詳細に語られ、プライドの高い人とお見受けした。

1.祖父の家庭教育
祖父が樺太庁第一部長の中川小十郎氏の招きで、単身樺太日々新聞の社長として赴任した明治44年(1911)の6月、私の母は和泉佐野市で自殺した。父はその地のタオル会社に勤めていたが、九州へ出張して不在中の出来事だった。私は東京にいて、父母と遠く離れていたから、父母のことは何も知らなかったが、夫婦の間はうまく行っていなかったのだ。父母は性格が違っていた。父は外向き、母は内向き、それだけでも合うはずがなかった。それに父は家を忘れた。それは母の耐え難いところだった。
 祖父は母が再婚するとき、短刀を渡して家へ帰って来るなと申し渡した。母は自分が耐え切れなくなり、しかも帰る家がなかったから、その短刀でのどをかき切ったのだ。それで思い出す。祖父は少年の私にも、武士の切腹の方法を教えた。祖父はそんな人だった。

2.一高時代の山本有三が樺太訪問
明治44年(1911)の夏、一高の生徒山本勇造(のち有三)が豊原へやって来た。一高の生徒は珍しかったから、樺太日々新聞の記者山本露滴がインタビューに行った。記者は有三を社長の祖父に紹介し、祖父は中川小十郎に紹介した。中川部長に来島の目的を問われて、有三は国境見学の希望を述べた。部長は便宜を図ることを約束した。有三は樺太長官の平岡定太郎にも会った。
 滞在中、中川部長が樺太庁の博物館へアイヌの酋長を呼んだので祖父も有三も一緒に写真を撮った。有三はそれから、アイヌの馬車で栄浜まで北上し、栄浜から90トンの船で敷香、海豹島に行った。この島は、知床岬の南方1キロにある小さな島で、オットセイの群生地だった。何千頭といるオットセイが上陸して砂浜を真っ黒にしていた。この島へは大正14年(1925)に北原白秋も行って、このオットセイ詩を詠った。

3.高浜虚子先生
先生に初めて会ったのは、大正11年(1922)の3月29日のことであった。先生の歓迎会が京都美術倶楽部で催された。そのとき私は、「彼岸寺間借りの書生昼は居ず」という句を出した。その寺は黒谷の長安院である。祖父が一時そこに寄寓していた縁からだった。
 いよいよ句会が始まって、句の清記が配られた。私はたまたま虚子先生の前に座っていたが、見ると、先生の前に置かれた清記に私の句が劈頭に書かれている。私の心臓は脈打った。先生はその清記を見られるなり、毛筆をとってすらすらと句を書きとられた。私の心臓は一層激しく脈打った。果せるかな、披講のときに私の句が真っ先に読み上げられた。私は天へ昇る思いがした。先生は眼の前で「誓子」を「セイシ」と読んでくださった。「君がセイシ君でしたか」と先生は言われた。それ以来、祖父からの命名「チカイコ」を止め、自らを「ヤマグチセイシ」と呼ぶことにした。そのときの、天へ昇る思いと、先生の私を見られた慈眼が、私を俳句の世界にクギ付けにした。

1948年

山口 誓子(やまぐち せいし、1901年明治34年)11月3日 - 1994年平成6年)3月26日)は、京都府出身の俳人。本名は新比古(ちかひこ)。

高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子高野素十阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。

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