宮城まり子 みやぎ まりこ

映画演劇

掲載時肩書ねむの木学園園長
掲載期間2007/03/01〜2007/03/31
出身地東京都
生年月日1927/03/21
掲載回数31 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社まり子バンド
配偶者パートナー:吉行 淳之介
主な仕事ビクター渡辺はま子(前座)、「ガード下の靴みがき」、ミュージカル、ねむの木学園、
恩師・恩人菊田一夫
人脈吉川英治、伊藤忠兵衛、鳩山 威一郎、松下幸之助、
備考弟・宮城秀雄
論評

3月の日経「私の履歴書」は宮城まり子さんでした。女優では、東山千栄子杉村春子水谷八重子田中絹代天津乙女長門美保春日野八千代ミヤコ蝶々山本富士子、(山口淑子)、宮城まり子、森光子、(扇千景)、香川京子有馬稲子佐久間良子浅丘ルリ子草笛光子の18人である。( )内は政治家として有名。
近年にない個人の赤裸々な告白書となっていましたので反響が大でした。芸能界では公知の事実として吉行淳之介との愛人関係が知られていましたが、それも天真爛漫に開示されて好感が持てました。

1.おけいこ
私は4歳のときから舞や清元を習わせてもらっていました。お染久松のお染の柄が好きで、それを着てしゃなりしゃなりと歩いていました。両親の眼にはそれがあまり好ましく映らなかったのでしょう。やめさせられて、呼び名も「ボーヤ」に変わり、つりズボンをはかされて男のように育てられました。二歳あとに生まれた弟は、先に「ボーヤ」がいたため、「八郎ちゃん」と呼ばれて育ちました。

2.絵は感じたまま・・母の教え
私は花の隣に座って絵を描くのが好きでした。並んで絵を描きながら私は母に聞きました。「お母さまはどうしてそんなに絵がうまいの?」 すると母は、「まりちゃん、人の絵をうまいなど思ってはいけません。人は人、自分は自分。自分の絵をお描きなさい。感じたことをお描きなさい」と少し厳しい口調で言いました。「お母さんは大人になってしまったから、あなたのように素直な絵が描けなくなってしまったの。あなたにはあなたの絵があります。好きなように描きなさい」。
しかし母の言いつけを守ると学校で叱られました。絵の時間にラジオ体操をする人を描いた時のことです。その人がとても気持ちよさそうに見えたので、感じたままに描いたら腕が背よりも長くなりました。先生は「真面目に描きなさい」と言いました。
「ねむの木学園」で私は絵も担当していますが、一度も「上手ね」と言ったことはありません。「うれしいわ」と言います。だって「上手ね」と言ったら子供はそれで満足してしまい、そこでストップしてしまうのです。

3.ガード下の靴みがき(原稿:ゴミ箱の中に)
1955(昭和30)年の夏でした。私がビクター文芸部の磯部さんというディレクターのデスクで遊んでいると、足元のごみ箱に丸めた原稿用紙が捨ててあるのに気づきました。レコード会社の原稿用紙ですから詞が書いてあるはずです。書いた人も、書かれた詞もかわいそう。そう思って私は原稿用紙を広げて皺を伸ばしました。
題名は「ガード下の靴みがき」。私は磯部さんのところへ飛んでいき、「お願い。これ、私に歌わせてください」。追いかけ回して頼み、やっとOKが出ました。
当時、有楽町やガード下や銀座では靴磨きの少年や花売りの少女をちょくちょく見かけました。私はありったけの心を込めて歌いました。
ガード下の靴みがき 詞:宮川一夫、 曲:利根一郎、 編曲:宮城秀雄(弟)
1. 紅い夕陽がガードを染めて ビルの向こうに沈んだら 街にゃネオンの花が咲く 俺ら貧しい靴みがき ああ夜になっても帰れない
3. 誰も買ってくれない花を 抱いてあの娘が泣いてゆく 可哀そうだよお月さん なんでこの世の幸福は ああみんなそっぽを向くんだろう
8月にレコードが発売され、その年の12月の紅白歌合戦でこの歌を歌えるようになりました。それほどものすごい勢いでこの歌が日本中に広まったのです。

4.役者失格→でも、後悔はない
脳性マヒの少女を演じることになったミュージカルで、私は重大な役割を持っていました。上手にやればやるほど芝居全体が面白くなる、そんな役でした。少女のダンスの振り付けが面白ければ面白いほど、お客様のことが気になりました。お客様の中に一人でも病気を持つ子が居たらどうしようと。そのため、稽古ではからだが全く動かなくなりました。身体が悪いのではなく、精神的に動かないのです。演出の菊田一夫先生に言いました。「私、この歌どうしても歌えません。アテトーゼの演技はできません」。「お前、役者だろう」 「役者です」 「役者ならやりなさい」 「できません」。
先生は東宝の重役で、脚本家、演出家です。先生の立場を考えればとても言えない言葉でした。
舞台が開き、私はアテトーゼのない健康な子でやることに決め、歌い、踊り、演技をしました。そして、1月間のミュージカルは終わりました。カーテンコールでは大拍手はなく、役者としては悔しすぎました。終わって、お客様のそばに挨拶にいったとき、私は脚を掴まれました。見ると15歳くらいの女の子が父親に抱かれて、口を大きく開けて「まーりーこさん」と満面に笑みを浮かべ呼んでいました。この子はアテトーゼの子でした。父親と母親は涙を浮かべ必死で抱きしめていました。

5.吉行淳之介は「淳」
彼の癌の告示をした医師を「私の淳のことをドクターの野郎は」と書いています。また、身体障害者介護施設「ねむの木学園」に吉行氏が全ての著作権を譲ってくれたことに感謝して、「ねむの木」村に吉行文学館を建て「私が生きている間に、短編の名手、吉行淳之介を愛した私が、独断と偏見で彼のアンソロジーを選び置くのです。この大それた贈り物は愛の証です。今日はすべておのろけ」とも書いています。彼女には怖いものはない感じです。使命感を持ったものの強みです。

追悼

氏は‘20年3月21日93歳で亡くなった。この「私の履歴書」登場は’07年3月の80歳の時でした。

先日、高校先輩の弁護士が指定した銀座の小料理屋に行くと先輩は未着だった。カウンターに座っておられたご高齢の婦人が、「いらっしゃい。お待ちしていましたよ」と言う。その隣りには60歳代の女性がいた。ママさんが出てきて、私に「○○先生はもう来られますから、掛けてお待ちください」と言う。ママさんが高齢のご婦人に「お客様へのご対応をしていただきましてありがとうございます」と言うと「少しでもこのお店に役立ちたいと思うからよ。お店の経営も厳しいでしょ!」と返答しながら、隣りの女性と顔を見合わせて「が、ははは」と言って笑う。

その時、先輩が到着した。「すまん。すまん。待たせたかな」と言い終わらないうちに、「○○先生、お久しぶりです。うわぁー、ここで会えて嬉しいわ」という。「いやぁー、まり子先生、お久しぶりですね。何年ぶりでしょうかね。お元気で何よりです。お変わりありませんね」と応える。「その節はいろいろお世話になりました。吉行文庫も何とか順調に行っております」とか「私の子供たち」とかの会話を交わしている。私は、弁護士とご婦人の顔を見ながら「吉行」「ねむの木」「子供たち」の単語をつなぎ、よく婦人の顔を見ると少しむくんではいるが「宮城まり子さん」の面影が残っていた。そこで先輩に「こちらのご婦人は宮城まり子さんですか?」と訊ねると「そうだ」と。おふたりの話が一段落着いたところで、「すみません、吉田と言います。日経の「私の履歴書」の愛読者です。まりこ先生の「履歴書」掲載も読ませていただきました」と言うと「え?そうお?」と応えられる。

私が「私の履歴書」の文中に(吉行淳之介の癌の告示をした医師を「私の淳のことをドクターの野郎は」と書いたり、「ベルサイユのばら」公演舞台で本物の馬が転倒し暴れだし観客が総立ちになったとき、まり子さんが馬に飛びつきのその首筋に寄り添ってなだめ鎮めた)との箇所を話すと、びっくりした顔をして「よく覚えてくれていたわねぇ。ありがとう。あなた、覚えている」と隣の女性に語りかけた。「いいえ、知りませんでした」と答えると「あなた秘書なんだから何でも知っているはずでしょ。これを覚えていなければ、秘書失格です。ねぇ、吉田さん」と言いウインクする。この後、紅白歌合戦で「ガード下の靴磨き」を歌った少年扮装や、「私の履歴書」を書いたエピソードを楽しく聴かせていただいた。「ガハハ」と笑う宮城まり子さんは昭和2年生まれだから現在86歳だという。今回、思いがけないハッピーな時間を過ごすことができた。

吉行淳之介氏との3つの約束:「履歴書」の初日に「ねむの木学園」設立で3つの約束を誓ったと書いている。「子供のお家やっていい?障害を持つ子どものお家をやりたいの、と私は淳之介さんに相談しました。すると①愚痴はこぼさないこと。②お金がないと言わないこと。③やめないこと。君を信じてくる子のため、やめてはいけませんと言われ、ハイと返事をしました」と。吉行氏はこの学園の理事・パートナーとして40年間支え続け、吉行全作品の著作権も遺言で残したのでした。

松下幸之助氏の支援と考え:松下氏はまり子さんが松下電器提供の連続ドラマに出演して以来、関西に後援会をつくってくださった。そして開園前に会ったとき、「学園建設はやめなはれ。それはやめなはれ。まりちゃんは歌をうとうたり、芝居をしたり、人の喜ぶことをやっている天使や。それが神様みたいなことしたらあかん」と言われたという。しかし、防犯カメラ8台や音響機器などをくださり、モニター室から全館放送ができ、音楽も送れるようになりなりました。10年ほどたったころ、松下氏は「まりちゃんが弱い子のために頑張っているのやから、私は日本の将来のため、優秀な人材を育てるところを建てますよ」と言われた。「それが松下政経塾。最初に投じたお金、まり子全財産1700万円、松下政経塾70億円でありました」とある。とても正直に好感の持てる書きかたでした。まり子さんの「履歴書」を読むと、天性の素直さ、無邪気さ、子供のように喜怒哀楽をはっきりと表す人でした。

美女と才女
宮城まり子
みやぎ まりこ
宮城 まり子
宮城 まり子
宮城まり子(1955年)
本名 本目 眞理子(ほんめ まりこ)
生年月日 (1927-03-21) 1927年3月21日
没年月日 (2020-03-21) 2020年3月21日(93歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府蒲田(現:東京都大田区
死没地 日本の旗 日本東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 歌手
女優
映画監督
福祉事業家
活動期間 1944年 - 2020年
主な作品
映画
白蛇伝』(声の出演、1958年)
 
受賞
1958年芸術祭賞
1959年:テアトロン賞
1973年吉川英治文化賞
2012年瑞宝小綬章
備考
東京都名誉都民
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宮城 まり子(みやぎ まりこ、1927年3月21日 - 2020年3月21日)は、・歌手女優慈善活動家福祉事業家)・映画監督勲等瑞宝小綬章(旧勲四等[1]。位階は従五位。本名は本目 眞理子(ほんめ まりこ)

  1. ^ 特別支援学校ねむの木児童・生徒募集のお知らせねむの木学園公式サイト
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