掲載時肩書 | 画家 |
---|---|
掲載期間 | 2011/02/01〜2011/02/28 |
出身地 | 島根県 |
生年月日 | 1926/03/20 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 山口大学 |
学歴その他 | 師範学校研究科、宇部工業 |
入社 | 代用教員 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 美術教員、35歳絵描独立、「数学」「電子計算機」NHK「絵本」、「ABCの本」「旅の本」安野美術館 |
恩師・恩人 | 杉山司七、勝見謙信 |
人脈 | 藤原正彦(数学絵担当)、丸木位里、司馬遼太郎(同年:挿絵担当)、佐藤忠良、小原國芳、村松武司、澤地久枝 |
備考 | 絵で内容を伝える、啖呵バイの義兄 |
1926年3月20日 – 2020年12月24日)は島根県生まれ。画家・装幀家・絵本作家。元美術教員。子供の頃より画家になる夢を抱いていた。美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表した。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く。世界的評価が高まり、絵本は世界各国で翻訳された。画家としても数多くの作品を発表し、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿画も担当した。文学にも詳しく、著述家としても活躍した。大阪府立国際児童文学館(1984年開館)のシンボルマークも担当した。劇作家の井上ひさしが主宰する劇団こまつ座の宣伝美術を数多く手がけた。1996年からちくま文庫で刊行されたシェイクスピア戯曲の松岡和子による新訳シリーズでは、全巻の表紙画を描いた。
1.小原國芳(玉川学園創立者)先生と国歌斉唱<
昭和23年(1948)、全国を遊説していた教育者の小原國芳先生が、徳山(現在の山口県周南市)にも来られた。先生の話はよく覚えている。先生の話は集まった人々の心を打たずにはおかなかった。先生は静かにピアノの前に進み「GHQはわたしたちが国歌を歌うことを禁じている(当時はみなそう思っていた)。しかし、今こそこの場で国歌を歌おうではないか」と導入部を弾いて斉唱を促した。全員が起立し、国歌は会場に満ちた。子供のころから折に触れて歌ってきた曲の記憶が呼び覚まされ、私も歌った。全員がしみじみと歌い、滂沱として流れる涙を拭く者さえいなかった。
2.司馬遼太郎さんの思い出
司馬さんの名作紀行「街道をゆく」(週刊朝日に連載)の挿画は、1971年の連載開始から須田剋太先生が長く描いておられたが、91年夏からわたしが描くことになった。司馬さんと過ごした取材旅行は近来になく楽しい日々だった。夕食後の司馬さんの話が聞きたくて週刊朝日のOBがいつも詰めかけていた。
司馬さんの話は、入場料を取ってもいいくらい毎晩出し物が変わる。何かの糸口から、どんどん話が進行して終わることを知らない。今になって録音をとっておけばよかった、何冊でも本になるのにと、わたしさえそう思うが後の祭りである。
司馬さんは気配りの人だったというが、上下の隔たりが全くなかった。わたしと初対面の時でも、自分から手を差し出し「お願いします」といったくらいである。新しく人が入ってくると、これまでみんなはどんな話をしていたか、いわば前号までのあらすじを聞かせ、その人が話の輪の中に入れるように配慮するのだった。
自分からは特異体質だというほどで、カニ、エビの類はだめ、お酒も白湯と一緒に飲まねばならない。奥様もいま食べているモノが何か、もし目がついているようなモノだったら食べられないというのだから、海外に行くようなときは命がけとなる。
司馬さんは「絵にかいたリンゴと本物のリンゴとでは、どうして絵の方がいいんだろう」と難題を持ちかける。いつか明快に答えようと思いながら今日に至っている。
3.佐藤忠良(彫刻家)さんの力量
佐藤さんが白寿(99歳)を控えて健在である。作品は無論のことだが、生き方、芸術に対する心構え、そのどれをとっても偉大な先人である。彫刻家だが、頼まれて「おおきなかぶ」という絵本も描いている。
佐藤さんは暇を見つけては自然の絵を描くが、この絵の真似ができない。わたしは手や足の長さや頭の中まで改造しなければならぬと思ってあきらめた。
肖像の彫刻は絵と違って、まつげとか、頬の色、小じわ、ほくろなど、肖像として便利なものは何も表すことができない。それでも似ていると感じるのである。ただ全体の量感を掴んで制作する。細かなことにこだわらず、対象の本質を見通しているのだというしかない。
氏は2020年12月24日、94歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2011年2月の84歳のときでした。氏以前に漫画や挿絵、軽妙な絵を描いておられたのは、挿絵・岩田専太郎(‘67.10)、軽妙な書画・中川一政(’75.5)、漫画・田河水泡(‘88.10)の諸氏でした。氏は子供の頃より、画家への夢を抱き、美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表してきた。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く人でした。
1.義兄はテキヤ
次姉の亭主は善一といった。彼の商売はテキヤであった。祭りで売るものに専門はなく、口先で売る売人で、いわゆる啖呵(たんか)バイである。「1円のものを100円で売らなきゃ商売とはいえねぇ」とうそぶいていた。私は「男はつらいよ」の寅さんを見るたびにその善一を思い出す。表向きは渡世の世界で覚えた「人間てえものは」という教訓が身についていた。
2.少年俱楽部
小学生の頃、私が初めて買ってもらった本だ。その頃にしては貴重な50銭を払って、母が父には内緒で買ってくれたものである。私は目次のページから最後の懸賞当選者の名簿まで、文字という文字は全て読み、この本の絵もみんな覚えた。
この頃の「少年俱楽部」の漫画は田河水泡の「のらくろ」と島田啓三の「冒険ダン吉」、小説は山中峯太郎「敵中横断三百里(樺島勝一の挿絵)」、高垣眸「怪傑黒頭巾(伊藤幾久造画)」、江戸川乱歩「少年探偵団(怪人二十面相)」、そして「さぁ、これからどうなりますでしょうか。あとは次号のおたのしみ」などとあって話が終わる。
3.ABCの本
私の絵本「ABCの本 へそまがりのアルファベット」は1974年10月に福音館書店から出版された。後で分かったことなのだが、ABCの本は世界中、歴史的に山ほどあって、2000年来あらゆる書体が試されてきた。ところが幸運なことに、私の絵本のような図形はなかった。
後に黒柳徹子さんから「安野さんのABCのデザインが、そのままクッションになってイタリアで売っていますよ」と言われ、驚いて調べてみたら、確かに有名な雑誌に広告が出ていた。製造元へ連絡すると、金で話をつけたいと言ってきた。1979年春のことだ。でも面倒なのでそのままになっている。
安野 光雅 | |
---|---|
文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真 | |
誕生 | 1926年3月20日 日本 島根県鹿足郡津和野町 |
死没 | 2020年12月24日(94歳没) |
国籍 | 日本 |
教育 | 美術 |
最終学歴 | 山口師範学校(現・山口大学教育学部研究科) |
主な受賞歴 | 1974年度芸術選奨新人賞 講談社出版文化賞 小学館絵画賞 ケイト・グリナウェイ賞特別賞(イギリス) ブルックリン美術館賞(アメリカ) ホーンブック賞(アメリカ) 最も美しい50冊の本賞(アメリカ) BIBゴールデンアップル賞(1977年・チェコスロバキア) ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞(1978年、1980年・イタリア) 国際アンデルセン賞(1984年) 紫綬褒章(1988年) 菊池寛賞(2008年) 文化功労者(2012年) |
デビュー作 | 『ふしぎなえ』(1968年・福音館書店) |
影響を受けたもの |
安野 光雅(あんの みつまさ、1926年3月20日 - 2020年12月24日[1])は、日本の画家・装幀家・絵本作家。元美術教員。島根県鹿足郡津和野町出身。東京都小金井市在住。文化功労者。