掲載時肩書 | 日本政策金融公庫総裁 |
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掲載期間 | 2009/10/01〜2009/10/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1935/01/16 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 西京高 |
入社 | 帝人 |
配偶者 | 社内結婚 |
主な仕事 | 舎監、購買、台湾合弁、帝人ボルボ、事業撤退部長、帝人商事、インドシナ、新規事業、女性採用30% |
恩師・恩人 | 青山芳夫 教授 |
人脈 | 的場順三(大学)、吉田宏(電通社長息 子)、大屋晋三、茂木友三郎、子会社20年 |
備考 | どんなとき でも腐らない |
1935年1月16日 – )は京都府生まれ。実業家。1988年にテイジン・インドネシア・ファイバー・コーポレーション社長を歴任。1992年に帝人に戻り取締役、1993年に常務取締役、1994年に専務取締役を経て1997年に同代表取締役社長に就任。1999年にCEO同兼社長、2001年に同取締役会長を務め、2005年に相談役へ退く。2007年に中小企業金融公庫総裁を務め、国民生活金融公庫、農林漁業金融公庫と国際協力銀行の国際金融部門が統合に伴ない、2008年、日本政策金融公庫の発足と同時に同総裁。
1.テトロン製ホンコンシャツ
1959年7月にテトロン販売第1課に移った。新規に始めたテトロン(ポリエステル繊維)の販売部隊を大増強する一環だった。主力商品だったレーヨンは相場商品なので電話一本で販売できた。新しいテトロンは消費者も知らない。ただ糸や綿を買ってくれと言っても駄目だ。衣料品が売れるように仕掛けないと、紡績、敷物、縫製が扱ってくれない。
そこで帝人は半袖ワイシャツの「ホンコンシャツ」の企画を打ち出した。入社3年目の私は綿紡績への販売担当の一員になった。紡績に混紡用のテトロン綿を売るのだが、シャツ地の需要を喚起することが先決。調べると、ワイシャツは入社シーズンに売れた後、4月頃から縫製会社はしばらく暇になる。その期間に作ってもらえれば良いと気付いたが、運転資金を貸せという。
上司に掛け合ったら、億単位のカネを出すからやってみろという。ただし担保が要る。困って最後に「株を担保に」と言ったら、経営者はみなオーナーなので、保有する自社株式を担保にしてくれた。「ホンコンシャツ」は安物イメージであったが、実際には大当たりで品不足になったほどである。海外旅行がまだ珍しい時代だったので、箱に印刷した香港の100万ドル夜景がシャツのイメージを高めたからだ。
2.事業の再構築で50社を整理
1997年6月、社長に就任した。社内でも知名度が低かったので、イントラネットに「社長の部屋」を設けて質問や意見を募った。私が必ず答え、基本的に全員に公開した。私が社長になったころ、帝人は年間売上高が連結でまだ6000億円台だった。世界的に見て素材関係の業種の企業としては規模が小さい。
厳しい国際競争で生き残るには、市場占有率を高めてコストを下げなければならない。柱となるテトロン(ポリエステル繊維)、フィルム、高機能ポリカーボネート樹脂の3事業は、世界3位以上の規模にする方針を立てた。①ポリエステルフィルム事業は、米国デュポンと事業統合した。7か国に合弁会社をつくり、世界最大規模の能力を持って、2000年1月から営業を始めた。②高機能のアラミド繊維は、オランダのアグゾ社が持っていた同事業をファンド経由で買収し、米デュポンと世界で2社体制にすることができた。3年かかったが、最初に提示された5億ドルより、運よく1億ドル安く買えた。③ポリカーボネート樹脂は自前で拡大を図り、シンガポールに続いて中国への進出を図り、成功することができた。
一方、中核事業と関連のない事業は殆ど撤収した。黒字経営の会社も多かったので、社内に「もったいない」という声もあったが、方針を貫いた。売却などで整理した会社は合計50社くらいにのぼる。
3.大屋晋三社長は反面教師
昔の帝人はおとなしい会社だった。大屋晋三さんというずば抜けた社長がいたから、みな頭が上がらない。若い人には優しく「君、これはこうだよ」と教えていただいたこともある。人間的魅力に富む立派な方だった。70歳くらいで第一線を引いていれば、大事業家として名を残していたと思う。トップを長くやると、悪い話は耳に入らなくなり、聞こえのいいことだけが入ってくる。これが最大の問題だ。
私は裸の王様になりたくなかった。私は取締役会の議論を活発にするために、20数人いた取締役を10人に減らした。事前の根回しを禁止し、資料は1週間前に配る。説明は短く制限し、議論に時間を割く。発言の少ない人は私が指名する。がぜん、みな意見を積極的に出すようになった。多面的によくもんで決めれば、恣意的な決め方はできない。それでも間違いは必ず起きるが、なぜ間違えたかが検証できる。
私の後継者問題もABの委員で審議してもらった。初回に英米の2氏から候補者に順番をつけ、良い面と共に未熟な面についての教育計画を併せて報告してくれと要請された。驚いたがもっともだ。
次回の会議で注文通り報告し、候補者や他の役員をABの委員に見てもらう機会を設けた。こうして後継者を準備したお陰で、後で私は救われる。