奥田務 おくだ つとむ

商業

掲載時肩書J・フロントリテイリング相談役
掲載期間2015/12/01〜2015/12/31
出身地三重県
生年月日1939/10/14
掲載回数30 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他津高
入社大丸
配偶者
主な仕事外商、10年後米留学、梅田駅ビル(本田店長)、豪州・札幌出店長、松坂屋統合、
恩師・恩人田中正佐(現場)、田中誠二(理論)、下村正太郎
人脈林周二 流通革命、本田博道、岡田邦彦(松坂屋)、岡田卓也、西川俊男、吉本晴彦、
備考兄・碩(トヨタ)
論評

この「履歴書」に登場した百貨店関係者は、三越(松田伊三雄坂倉芳明)、大丸(北沢敬二郎)、松坂屋(伊藤次郎左衛門佐々部晚穂)であり、氏を入れて合計6名となる。しかし、J・フロントは大丸と松坂屋の老舗百貨店が経営統合したので、先輩の北沢、伊藤、佐々部についで4人目である。トヨタ自動車の奥田碩元社長は7歳上の実兄であった。

1.百貨店・外商の仕事
「悪いが外商で頑張ってくれへんか」。1966年(昭和41)春、人事部に呼ばれて辞令を受け取った。26歳のことだ。外商とは、百貨店の店頭の商売ではなく、会社や個人宅に伺って商談をする部署だ。それにしても入社2年目の社員が行く部署ではないと思ったので、人事部の担当者に理由を聞いた。「外商の近代化のための先兵に君ら3人になって欲しいんや」との答え。オマケに「君らは一番図太いそうやから」という。
 配属先の外商3課は官公庁や学校・宗教法人などが対象で、約10人部隊だった。外商は名前の通り、店舗から外に出ないと始まらない。スクーターや自転車に乗ってお得意先を回る。夏の京都は暑い。お尻に汗もができて、サドルに座るのも痛がゆかった。一方、店内は冷房が効いている。また外商は予算制なので売上予算達成率は厳格だった。

2.米国流の百貨店経営を学ぶ
社会人になってちょうど10年、34歳のとき「奥田君、米国の大学で勉強してもらう」となる。
留学先はニューヨーク州立大学に設置されたファッション・インスティテュート・オブ・テクノロジー(FIT)で、衣料品のバイイング(仕入れ)とリテールマネジメント(小売業の経営管理)を学んだ。大きく違っていたのは、日本では百貨店の商習慣として、商品は各店舗で仕入れ、売れ残れば返品が可能であったが、米国では、本社が一括して商品を仕入れ、売れ残っても返品はしない。規模の経済も働き、正価で売切れれば利幅も多く取れるものだった。しかし責任制が明確で、仕入れ担当者(バイヤー)は商品が売れ残り、不良在庫になると解雇に繋がることもある。あるバイヤーが仕事をしながら転職先を探していた。周りに聞くと「クビになる前に職探しをしている」と平気に話すには驚いた。

3.梅田に新規出店計画
1980年(昭和55)2月40歳、本社大阪新店舗計画主任の辞令を貰う。新店舗とはJR大阪駅に隣接する梅田店のことで、既に5年前か出店準備に入り、役員や幹部などが店舗コンセプトなどを詰める作業を進めていた。「若い君らに計画を練り直して欲しい」とのこと。
 30代から40代前半の6人が集められ数か月かけて店舗コンセプトを出し合うことになる。大阪周辺には阪急、阪神の百貨店がある。大丸本店の心斎橋店も地下鉄で10分足らず。よほど特色を出さないと埋もれてしまい、心斎橋店の顧客を奪う恐れもあった。
 まずは日本全体の消費者動向を把握し、それを大阪、梅田に細分化して分析することから始まる。「店舗コンセプトとイメージを一体化し、商品だけでなく、売り場の内装、販売員の服装まで統合した戦略を持つことが大切だ」。店に入れば梅田店であると誰もが一目でわかるようにしようと考えた。
 米国の百貨店で先行していたライフスタイルに基づく店づくりを目指す。新しいライフスタイルに敏感な先行層に訴えて、そのマスの実需層でブームを作り、そのブームを知って流行に遅れたくない追随層を狙う3段階の消費行動を想定した。従来の百貨店だと1階は化粧品、アクセサリー、2階は婦人、3階は紳士などのようにフロアごとに分けていたが、それを取り払い生活シーンに合わせた商品構成にした。要するに漠然とした客層ではなく、「重点とするお客様は誰なのか」を意識するものだった。

4.オーストラリア出店で理論と実践の融合
1988年(昭和63)8月48歳、9人の部下と共にオーストラリアの現地法人トップとして赴任した。南半球だから日本と四季が逆転しており晩秋だった。サンタはソリでなくサーフボードに乗ってやってくる。この店舗の最終的な陣容は約800人。移民の国だけに150の国や地域の出身者となった。この陣容だから意思疎通の難しさや癖のある英語に苦労をすることになる。しかし、英国籍で南アフリカの鉱山の労務管理をしていた人事部長は、「総務部は必要ない。組織はもっと簡素化すべきだ」の意見を採り入れ、大胆で効率的な人員配置をつくった そして商品も完全買い取り方式を採用した。この方式は日本のスーパーでは既に実行されていたが、百貨店ではできていなかったのだった。
 私はオーストラリア現地法人のトップとなって、理論と実践の融合ができたことに武者ぶるがした。

5.百貨店経営の改革(札幌出店で)
百貨店全体の売上規模は1991年のピークには10兆円もあったが、スーパーやコンビニに追い上げられ、現在は7兆円近くまで落ちていた。
 日本は四季によって商品の入れ替えが頻繁。客層も広く品揃えの豊富さも必要だ。米国の百貨店は特定層に絞り込んだ店が多く品揃えも限定される。一店舗当たり30万品目以下の米国に対し日本は100万品目以上。日本は圧倒的に難易度が高いのは明らかだ。
かって百貨店の盟主だった大丸も生き残るために大型百貨店の統合が欠かせなかった。「最大のお客様満足を最小のコストで」の合言葉で札幌への出店を企画した。ふつう札幌店の規模なら約800人の販売員が必要だったが、それを400人に、年功序列を廃し、その仕事にふさわしい能力のある人材を配した。人材も品揃えも米国留学やその後の米百貨店での研修、豪州店舗経営など、これまでの経験をすべて生かしたもので成功することができたのだと思う。

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