掲載時肩書 | 住友化学工業会長 |
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掲載期間 | 1971/08/11〜1971/09/08 |
出身地 | 兵庫県尼崎 |
生年月日 | 1894/05/01 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 平安中学、三高 |
入社 | 住友本社 |
配偶者 | 武内->土井娘19歳 |
主な仕事 | 人事課労務、スト(西尾末広)東京支店、厚生課、住友化学、西本願寺門徒総代、硫安協会 |
恩師・恩人 | 原田了哲 |
人脈 | 大谷光瑞法主、三高(田路舜哉・広瀬経一)東大(岸信介・我妻栄)、岩切章太郎、大屋敦、川田順、湯浅佑一 |
備考 | 武内宿禰の70代目末裔、信条「艱難汝を玉にす」、小唄会 |
1894年5月1日 – 1997年5月3日)は兵庫県生まれ。実業家。住友化学工業社長・会長。住友化学の中興の祖。住友総本店へ入社した翌年の2月、個人経営だった住友総本店は新しく資本金1億5千万円の住友合資会社と衣替えした。その後は、住友金属工業、住友本社を経て、1942年に住友化学総務部長就任。1944年には日本染料との合併の際、交渉委員として活躍。1947年に社長、1963年に会長をそれぞれ歴任した後、1975年に相談役を務めた。1983年に経団連副会長務めるなど関西の財界で活躍し、毎日放送取締役なども務めた。小田原大造との大阪財界における「第1次南北戦争」が知られている。
1.大谷光瑞法主のお人柄
明治43年(1910)、平安中学2年の春、西本願寺の門徒を挙げて親鸞聖人六百五十回忌法要が行われた。原田の叔父がこの企画を立案したが、全国から信徒三十万人を京都に集める大掛かりなもので、団体参詣として日本で初めての大行事ではなかったかと思う。西本願寺系の平安中学生も、私の他数名が選ばれて法主の住んでいる御殿へお手伝いにやらされた。光瑞法主のお傍に仕え、法主の出される天気予報を京都の六条界隈の要所に貼って回ることであった。西本願寺の奥にある金華殿の屋上で、光瑞法主が自ら天文観測され、翌日の天気を予報される。その予報を参詣客にサービスするため、私たちは謄写版刷りにして配るわけだ。
近くで話す時は直立不動の姿勢をとり、「猊下(げいか)」という尊称を付けてお呼びする習わしだった。身近に接する光瑞法主は諧謔交じりに洒脱な話をされる。金華殿の屋上では「おい武内、お前シナうどんの作り方を知っているか」と声をかけられ、今でいう中華そばの製造法を教えられたこともある。
2.住友化学の初期
私が本店から住友化学に転じたのは、昭和17年(1942)12月、48歳の時である。既に、その前年には太平洋戦争が始まり、政府は戦争遂行のために経済統制を強化していた。住友化学ではアルミナ(アルミニュウムの原料)、肥料、航空機燃料を生産していたので、次々と軍需省から増産命令が出され、私たちはそれを遂行するため、ただ夢中で働くほかのない毎日を過ごすことになった。
私の赴任当時の住友化学は、製造工場は新居浜(愛媛県)だけにあり、本社は総務、営業の二部しかなく、払込資本金は六千万円だった。住友化学はもともと、別子銅山から発生する亜硫酸ガスから硫安を作り、今日でいう公害防止対策を肥料生産に結びつける産業として発展してきたが、まだ総合化学会社の形態は整っていなかった。当時、政府は立法措置により、増産を図るため企業の整備統合を進めていた。
そこで日本染料との合併を進めた。同社は第一次大戦後、半官半民の国策会社として設立されたが、そのころの染料部門は著しく縮小され、医薬品、火薬に生産の重点を移していた。合併には古田俊之助総理事、河合常務理事が先方の稲畑二郎社長と話し合って基本条件を決められた。私は続常務、長谷川周重(現住友化学社長)らとともに、交渉委員となり、合併の細目をまとめ昭和19年6月に正式合併した。
3.白水会の誕生
昭和25年(1950)に起こった朝鮮動乱を契機に日本経済は急速に息吹はじめ、占領軍の指令に追いまくられていた住友各社も、将来の発展へ新しい一歩を踏み出す時期に来ていた。そこで財閥は解体し、各社は自主的経営になったとはいえ、ときどき懇談の機会を持ち、意思の疎通を図るのがいいと考えた。
そのため、日本建設産業(住友商事の旧社名)の田路舜哉君、新扶桑金属(住友金属)の広田寿一君、大阪銀行(住友銀行)の鈴木剛君らにこの意向を伝えると、皆大賛成だった。そこで住友本社最後の総理事だった古田俊之助さんにもお伝えすると、結構なことだとのご意見だった。
そこで、旧住友関係会社(直系会社)12社の社長に呼びかけ、26年暮れに第1回会合を開いた。集まったメンバーは、前記3社長の他、住友電工の岸要、別子鉱業(住友金属鉱山)の田中外次、富士信託銀行(住友信託銀行)の熊谷栄次、国民生命保険(住友生命保険)の芦田泰三の諸氏ら12社長であった。