小田原大造 おだわら たいぞう

団体

掲載時肩書大阪商工会議所会頭
掲載期間1961/04/07〜1961/04/30
出身地広島県
生年月日1892/11/10
掲載回数24 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
商業高校
学歴その他尾道商
入社商業学校代用教員
配偶者父の従弟娘19歳
主な仕事関西鉄鋼(日立造船子会社)>久保田鉄鋼に買収、労働問題、墨田川紛争解決、濡れ衣・拘留100日(手錠・編み笠)
恩師・恩人久保田権四郎社長
人脈須山令三(支配人)、中村富士銀行難波支店長、
備考平家落人、 金光教、父:教師
論評

1892年11月10日 – 1971年4月8日)は広島生まれ。実業家。兵庫県尼崎市の関西鉄工に入社。翌1917年、同社が久保田鉄工所に買収されそのまま久保田鉄工所社員となる。義理人情に厚く研究熱心のため創業者・久保田権四郎に見込まれた。若くして労働争議の解決や工場の合理化・効率化に手腕を発揮。出世を続けて戦後の混乱期にも卓越した手腕を発揮し、1950年まわりから推されて社長に就任した。
「神の前にはみな平等」を信条とし争議のない会社を実現。また愛国心から「国のためになる事業をなす会社」を標榜し事業を拡大。社長・会長在任中に同社は資本金が100倍にもなり中興の祖」と言われた。久保田鉄工所(現・クボタ)元社長。

1.労使問題・・信仰の立場で労組を理解
その昔、資本家にとって労働者は結局自分たちが給料を出して養っている「奉公人」であると思っていた。その身分の差があまりにもひどく、そばにも寄り付けないようなものだった。その後時代の変化で民主主義の思想がだんだん取り入れられたため、世の中は金力だけではない、労力も重大な要素であるという民主主義社会―修正資本主義という考えが起きてきた。
 私は28歳の頃から病気がもとで信仰生活に入り金光教の信者として努力してきた。自分たち人間は皆等しく神の子である。この建前でゆくと、富めるもの、貧しきもの、地位の高いもの、低きもの皆区別なく神の前には平等である。そこで労働者は奉公人、金でどうにでもできるという考えにはひどく反発を感じた。人生にこんな不公平な差別があることは許されぬというのが自分の思想を支配している。神の氏子としてできるだけ隣人と助け合い、経営者も労働者も平等に幸せにならなければならない、が私の思想根底である。

2.思いがけず汚職に連座・・未決囚で手錠と編み笠
昭和9年(1934)、思いがけない「横浜事件」が起こった。私はありもしない濡れ衣で召喚された。何知らぬ私に編み笠を被せ、手錠をはめ有無を言わせず未決囚に仕立て、取りつくしまもないまま巡査付きで護送自動車に乗せられ、横浜刑務所の未決監独房に放り込まれてしまった。毎朝、手錠をはめられ編み笠を被せて未決監から横浜市内の検事局に運ばれる。鉄板のドアの暗い冷たい検事局の留置場にぶち込まれて外からカギ、寒い時だから病身の私にはことにつらかった。来る日も来る日も同じように朝早くから護送自動車で検事局に引き出され、夜になって未決監に帰される日が続いた。
 検事はいよいよ拘留期限の切れる前日、有無を言わせず私を起訴した。うすら寒い独房でその夜はまんじりともせず遅くまで考え続けた。ここで下手をすれば久保田社長が検挙される。それなら自分としては絶体絶命だ。どうするか、どうすべきかと思い悩んだ末、「人間の運命には栄枯盛衰がある。義理人情の大道を進めばいつか必ず救われる」と固い決意が湧いてきて、「私が一人でやりました」とポツリと言い終わったとき、ひとりでにポロポロと無念の涙が流れ落ちた。

3.晴天白日・・・法廷で拷問を訴える
この事件の検挙者は公務員60人。業界60人、合わせて約120名ほどであったが、各人とも言語に絶する拷問を受けたという。大声も聞こえない部屋で、検事が見張っていて刑事が3人から5人掛かりでいじめる。“からだに訊く”というのがこれである。これを聞き、義憤、公憤に燃えた私は全被告に呼びかけて、検事らの拷問に対する告訴を東京控訴院に提起した。
 その告訴状には“拷問の惨状”を実演した写真まで付けた。公判が始まってから2年くらいたって私の陳述の日が来た。丸4日間、大陳述を展開した。忠良無垢な国民に対し天人共に許さぬ悪逆無道の権力を悪用したこの罪をどうするかと絶叫した。検事たちを睨みつけ、「でっち上げで疑いをかけて被告を陥れた」と、涙を流して陳述を終わった。かくて昭和13年(1938)2月7日、被告の95%以上が無罪判決となった。

小田原 大造(おだわら だいぞう、1892年11月10日 - 1971年4月8日)は、昭和期の日本の実業家位階正三位

久保田鉄工所(現・クボタ)元社長。広島県御調郡向島東村(現・尾道市向東町)出身。

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