掲載時肩書 | バイオリニスト |
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掲載期間 | 2018/10/01〜2018/10/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1943/12/11 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 露国レニングラード音楽院 |
学歴その他 | 桐朋学園 |
入社 | |
配偶者 | 離婚 |
主な仕事 | 18歳でソ連留学、歴史、オペラ勉強、左指の使い方、NYジュリアード、 |
恩師・恩人 | ワイマン師、 |
人脈 | アンナ師、潮田益子、斎藤秀雄、ケンペ師、シゲッティ師、中村紘子、堤 剛、 |
備考 |
演奏家でこの「履歴書」に登場したのは、平岡養一(木琴)、辻久子(バイオリン)、ジョージ川口(ドラム)、渡辺貞夫(トランペット)、園田高広(ピアノ)、山下洋輔(ジャズ・ピアノ)に次いで、彼女が7人目である。
1.斎藤秀雄師の助言
彼女は指揮者でありチェロの名手でもある斎藤秀雄師から「演奏の技術ばかりに気をとられてはいけない。バイオリンは道具にすぎないのであって、大切なのは音楽の本質を伝え聞かせること」と何度も聞かされていた。
2.レニングラード音楽院に第一号留学生
日ソ国交が回復し、レニングラード音楽院に第一号留学生として潮田益子と一緒に選ばれた。その音楽院の指導教授のワイマン師から楽器の違った奏法を教えてもらう。それは、「左手の指の押さえ方だった」。それまで彼女は「人差し指を起点に中指、薬指、小指の順に音程をとっていた」。しかし、師は逆に小指を起点にする奏法を勧めてくれ、こうすれば手指の力が抜け、ごく自然に演奏を続けられ、今日の年齢でも演奏できるのだった。また師は、曲の背景にある歴史や文化、伝統を学びなさいと勧めたので、彼女は劇場でオペラやバレエを鑑賞するだけでなく、少しでも時間があれば近くのエルミタージュ美術館にも足を運ぶようになり、チェーホフやドストエフスキーも読み始めた。師は外国からの留学生にロシアの魂を教えたかった。彼女はこの世には映像や本では学べない何かがあると思い、極寒のソ連で悪戦苦闘しながら、これらの勉強により何かを会得した。これが彼女の掛け替えのない財産となったのだった。
3.ジュリアード音楽院で欧米タイプの演奏を
この後、彼女はニューヨークのジュリアード音楽院に行き新しい欧米タイプの演奏を学ぶ。そこで巨匠ヨーゼフ・シゲッティ師から独特のレッスンを指導される。ベートベンのコンチェルト勉強のときは、彼女かバイオリンを彈くのは後回しにして、ベートべンの時代の美術や文学について語り、次々と彼女に質問を浴びせた。そしてシェーンベルクの時にはカンディンスキーの美術の話をされたが、この巨匠の演奏の説得力は教養の深さから生まれるものと理解した。師が愛読したロマンローラン作品を、彼女は本当に必要と思い日本から全集を取り寄せ読み眈った。
4.ステージ演奏は、服も曲の一部
また、同じくバイオリンの巨匠ナタン・ミルティン師から学んだのは、どんな状況にも即応して演奏できるフレキシビリティだった。師は演奏するホールの大きさや響き方、天候などの様々な要素を考え、それに応じて左手の指づかいや弓の動かし方を変えることを指導してくれた。しかし舞台では、彼女はその上に持論として「ステージで演奏するときも、服も曲の一部だ」と考え、いつも衣裳を数着持ってコンサートに出かけ、ステージの壁の色や照明なども考え着る服を選んでいたという。そして、彼女は1736年製の名器デル・ジェス・ガリネウスを手に入れたが、これを弾けば、さらに階段を一つ上がれると確信したからと述懐している。名器の不思議さだ!