掲載時肩書 | 衆議院議長 |
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掲載期間 | 1974/01/01〜1974/01/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1905/12/10 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 大蔵省 |
配偶者 | 塩崎汽船娘 |
主な仕事 | 療養、5年遅れ税務署長、科学的調査、主税局・申告納税、衆議員「牛」、幹事長、池田引退、衆院議長 |
恩師・恩人 | 西垣延二先生、池田勇人(兄貴分) |
人脈 | 芥川也寸志・菊池寛(一高)、福田赳夫(蔵)、渡辺武、大平正芳、宮澤喜一(通訳)、水野茂夫 |
備考 | 代々陶器商、蔵書2万数千冊、三味線、小唄など多趣味 |
1905年12月10日 – 1981年7月23日)は京都府生まれ。政治家、官僚。宏池会第二代会長。第58代衆議院議長。政界有数の読書家、教養人としても知られた。小学生時代に『太平記』を読破し、蔵書は和漢、欧米の原書など約4万冊と言われる。国会内書店で月400万~500万円もの書籍を購入し書店主に「あんな人はもういない」と舌を巻かれたことがある。1981年の死後には遺族が故郷の宮津市に蔵書と多額の建設資金を寄贈し、1983年7月23日には宮津市立前尾記念文庫が開館した。芸事も巧みで、小唄は春日流名取で「春日と繁利」の名を持ち、入院中、見舞いに来た宮澤喜一と床でおさらいをしたり、田中角栄と並んで東横ホールに出演し唄った。三味線、ハーモニカ、バイオリン、明笛もこなした。
1.負けず嫌いで何でも夢中
小学校時代の私の短所は自分の興味あることにバカに熱中して、肝心な勉強はおろそかにしがちであった。家が貧乏だから玩具など買ってもらえないから、人のものを借りてけい古するしかないから、友達が買ってもらった書物でも、自転車でも、楽器でも、借りたわずかな時間に熱中してけい古しなければならなかったし、やれば人に負けないようにならなければ気が済まなかったのである。
夏休みの遊びは水泳か相撲であった。道具も金もいらないからもってこいである。しかし、負けても負けても勝つまでやるというのが評判であった。囲碁や「かるた」も同じだった。音楽は元来好きであった。もらった大正琴に夢中になったのが楽器の習い始めで、鈴木奈々丸の浪曲、カチューシャの歌、野ばらの歌、「真白き富士の峰」などもバイオリンを借りては独習した。中学になるとブラスバンドに入り応援に出かけた。
2.科学的調査法の採用(純益ずばりの課税計算)
昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まった。当時私は東京の直税部長だった。多くの物資は配給統制が行われていたが、税収が必要で統制資料を活用すれば、それによって各人の収益をかなり的確に知ることができ、課税の充実を図ることができると考え、部員に各業種に応じて研究させていた。
例えばすし屋は一釜、二釜と釜を単位としているが、一釜は2升(約3.6L)で、200個握るというのが従来からの常識であった。しかし、一合(0.18L)10個のすしの目方は11.2匁(約45g)で、とても大きい田舎寿しならいざ知らず、東京あたりではチョッと見当たらない代物である。そこで各税務署に方々の寿しを買わせて、その飯の目方を量らせてみると、協定では8匁(30g)ということになっていたが、実際はほとんど6匁から5.5匁(約21~23g)で、いずれも一釜400個以上は握っているし、新橋の屋台では600個も握っている状況であった。これに配給米の数量に各店の売上個数X平均単価すると売上金額がわかり、これに原価計算をして純利益を算出すると、配給米だけでも従来の課税所得の何倍にもなることが分かった。
3.池田勇人首相退任の舞台裏
昭和39年(1964)9月初めの日曜夜、大平正芳君が突然私の家にやって来て、「池田総理の病状がどうも怪しい。ガンらしい」というのである。早速東大病院で診察を受けると、まさしくガンである。私は、一国の総理がガンになったと公表すれば、むろん新聞に出るし本人も読む。それよりも、折角東京オリンピックが始まろうとしている際に、その国の総理がガンで入院中とあっては、オリンピックそのものが非常に暗いものになる。そこで私は密かにがんセンターの比企総長や久留院長に会って、「ガンであることだけは絶対に秘密にしてもらいたい」と頼んだ。そして9月25日に「前ガン状態」という発表がなされた。
私はオリンピックが終了した翌日の日曜日に総理を辞任させようと決心して、10月6日に大平君と三木武夫幹事長に密かに会って、私の考えを述べた。そしてがんセンターの比企さんに「10月10日の開会式には何も話さずに元気に出席させてもらいたい。それが済んだら臨時国会も通常国会出席は不可能だから、オリンピック直後やめるよう勧告してもらいたい」と頼んだ。池田総理はこれを受け入れてくれ、オリンピックの翌日まで確実に秘密が保たれ、立派な引き際であったと世の絶賛を浴びたのだった。
前尾 繁三郎 まえお しげさぶろう | |
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1961年頃の前尾繁三郎 | |
生年月日 | 1905年12月10日 |
出生地 | 日本 京都府与謝郡宮津町(現・宮津市) |
没年月日 | 1981年7月23日(75歳没) |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 | 大蔵省官僚 |
所属政党 | (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 衆議院永年在職議員 |
第58代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1973年5月29日 - 1976年12月9日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第29代 法務大臣 | |
内閣 | 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 | 1971年7月5日 - 1972年7月7日 |
第26代 北海道開発庁長官 | |
内閣 | 第1次佐藤第2次改造内閣 |
在任期間 | 1966年8月1日 - 1966年12月3日 |
第15代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第1次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年7月10日 - 1958年6月12日 |
選挙区 | 京都府第2区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1949年1月24日 - 1979年9月7日 1980年6月22日 - 1981年7月23日 |
その他の職歴 | |
第8代 自由民主党幹事長 (総裁: 池田勇人) (1961年7月 - 1964年7月) | |
第11代 自由民主党総務会長 (総裁:佐藤栄作) (1965年 - 1966年) |
前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 - 1981年7月23日)は、日本の政治家、官僚。第2代宏池会会長。第58代衆議院議長。