八尋俊邦 やひろ としくに

商業

掲載時肩書三井物産会長
掲載期間1989/12/01〜1989/12/31
出身地東京都
生年月日1915/02/01
掲載回数30 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他東商予
入社三井物産
配偶者父友人娘(新関社長仲介)
主な仕事ベトナム、西川物産、第一物産、三井物産(S34)イランproject(4人の社長関与)
恩師・恩人水上達三
人脈出光佐三(父親友)、戸倉勝城(阪急)、笹山忠夫(妻兄)、稲山嘉寛、斎藤英四郎、石川六郎、市川猿之助、三田佳子、岩下志麻
備考アダナ「昼行燈」、弟(敏行)日本製粉社長、
論評

1915年2月1日 – 2001年10月27日)は東京都出身の実業家。三井物産の社長や会長を歴任したほか、商社出身者として初めて経済団体連合会副会長を務めた。イラン革命及びイラン・イラク戦争により暗礁に乗り上げたイラン・ジャパン石油化学(IJPC) の清算処理にあたり、同社会長時代に江尻宏一郎社長が清算金をイラン政府に支払い、清算保険金を通産省に請求することで解決したのを機に相談役に(1989年)。世界平和研究所(現:中曽根康弘世界平和研究所)第2代理事長、ロシア東欧貿易会会長(現:ロシアNIS貿易会)、日本対外文化協会顧問などを歴任した。

1.三井物産の情報力
昭和16年(1941)、私はようやく物産マンになじんできた。当時、物産は群を抜いて大きく、三菱商事の3倍以上の規模があった。そして戦前の物産の情報力は定評があった。海外の大使、公使館より早く情報を入手することもしばしばだった。日露戦争の際、バルト海を出港したロシアのバルチック艦隊が欧州回りで極東のウラジオストクに向かった。この時の物産海外支店の活躍は語り草になっている。
 シンガポール支店はマラッカ海峡を経由して南シナ海を北上する艦隊発見のニュースを本店に打電。続いてベトナム南部のカムラン湾に結集し、石炭の補給を受けつつあるとのニュースを、サイゴン(現ホーチミン)出張員が報告した。さらに上海では、山本条太郎支店長が自らヨットに乗り込み、沖合を北上中の艦隊の姿を確認、艦隊の石炭補給を阻止すべく港にあるはしけを全部借り上げてしまったという。
 この情報を上海支店から東京へ打電したのが坪井東三井不動産会長の叔父さんだったそうだ。遠い海外で、祖国愛に燃えて奔走する商社マンの意気を感じてしまう。

2.ベトナムで狩猟マニアになる
昭和17年〈1942〉、ベトナムの材木商のフランス人社長から狩猟に誘われ、以来その魅力にとりつかれた。鳥や鹿などを撃つ二連銃の他、野牛・虎用の自動10連発銃「コルト44」を買い求め、インドシナ政庁の大動物狩猟許可証を交付してもらった。虎でも、象でも来いと休みになれば運転手を伴って何時間も自動車を走らせ、山深く入り込んだ。モイ族の褌ひとつの案内人を雇い、牛車でさらに山奥へ進んだ。
 南方での狩猟は月のない深夜と決まっている。頭に炭鉱員のようにヘッドランプをつける。昼間は動物の動きが早く、狙えない。夜はランプの光に照らし出されて、らんらんと輝く動物の目玉がとらえやすい。相手もまぶしくてじっと立ち止まることが多く、そこで両目の間を狙って発射する。仕留める率も高い。
 肉食の動物は目が赤く光り、草食動物は青い。前もってそんな区別も教えてもらっていたが、ベトナム時代に仕留めた獲物は鹿が20数頭、いのしし4頭、ムジナは数知らず、しかしとうとう虎には巡り会わずに終わってしまった。

3.IJPC(イラン・ジャパン石油化学)解決に取り組む
昭和51年(1976)、三井物産の専務を兼務しながらイラン化学開発(ICDC)社長に就任した。この会社は、物産をはじめ三井東圧化学など三井グループ5社が共同出資した日本側投資会社である。イラン側の石油化学公社(NPC)と折半出資でIJPCを設立していた。この事業はいろいろな問題を抱えていた。54年(1979)1月、パーレビ国王は国外に脱出し、イラン革命の火の手が全土を覆った。このIJPCプロジェクトにゴーサインを出した社長の若杉末雪さんは、在任中に急逝された。後を襲った池田芳蔵さんは、事業の収拾に精魂を尽くされ6月、私にバトンを渡した。IJPCは私に社長の座を与えたが、それは試練の場に座らされたも同然であった。
 昭和55年10月14日、通産省の大臣室で私は当時の大臣だった田中六助さんと会談した。前の月にイラン―イラク戦争が勃発し、工場現場のバンダル・ホメイニが巻き添えになりそうな気配があった。何しろ激戦地となった国境のコーラムシャハルから100キロと離れていない。三井物産社長としての私は、爆撃目標になりかねない工場現場から日本人技術者の引き揚げを指示した。大臣に呼ばれたのはそのためだった。「円借款も供与された事業だけに、緊急避難とはいえ通産省の許可を得ぬまま踏み切ったのはけしからん」ということだったのだろう。
 3度目に日本人技術者を引き揚げる前に、私は戦争という不可抗力の事態を受け、イランとの間で問題となっている「基本協定」の改定交渉に臨んだ。昭和58年〈1983〉5月のことである。たしか夜中の2時頃だったと思う。我々三井グループとの交渉のために来日したイラン石油省のオナルドースト次官から、六本木の私の自宅に電話があった。「今からでもぜひ会いたい」という。
次官の宿泊先だった赤坂東急ホテルへ車を飛ばした。前夜の会議で、私は「もう資金は出せない。日本側としては利益などいらないフィー・ベース(実費)で協力を続けるから、今後はイラン単独の資金負担でやってくれ」と主張していた。この提案に対する返事のために、深夜私を呼んだわけである。「あなたの言い分はわかった」と次官は言った。ようやく、永年苦しめてきた基本協定に代わって新しい取り決めが成立することとなった。この新協定を補完協定と呼ぶ。安堵の喜びの中で私は覚書に署名した。終わったら、次官もホッとしたらしく「オー・マイブラザー」と大声を出しながら私に抱き付いた。

4.稲山嘉寛さんと市川猿之助さんとの思い出
今は亡き稲山さんとは、猿之助さんを交えた楽しい思い出がある。小唄、常磐津を駆使しての稲山さんのお座敷遊びは定評があったが、「猿之助君を誘って、小唄の競演会をやりませんか」との私の提案に飛びついてこられた。昭和58年ごろだったと思う。
 当代の千両役者が座敷で自分の唄に合わせて踊ってくれるわけである。稲山さんも力が入った。2週間も前から猛練習をされたと聞く。猿之助君にも、事前に私が出し物を伝えておいた。いよいよその日。稲山さんは小唄の「当代珍し」を披露、猿之助君はそれに合わせて素踊りを舞った。無事終わって、稲山さんの顔は得意絶頂で大変ご機嫌だった。
 稲山さんは行く先々でこの自慢話をされたらしい。黙っていなかったのが、赤坂以外の芸者さんたちである。まず、柳橋から火の手があがった。「赤坂でそんな余興やって、柳橋では何でやれないの」とせっつかれたらしい。芸妓さんにすれば、稲山節はいつも聞いている。見たいのは猿之助君の踊りだ。稲山さんは抗しきれないとみたか、「もう一度、お願い」と私のところに連絡してこられた。かくして赤坂から一年後、柳橋での再演が実現した。

八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 2001年10月27日)は東京都出身の実業家三井物産の社長や会長を歴任したほか[1]商社出身者として初めて経済団体連合会副会長を務めた。1987年に勲一等瑞宝章を受章[1]

  1. ^ a b “八尋俊邦氏が死去/元三井物産社長”. 四国新聞社. (2001年10月29日). http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20011029000571 2021年5月27日閲覧。 
[ 前のページに戻る ]