掲載時肩書 | 仏文学者・元慶應塾長 |
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掲載期間 | 1982/06/25〜1982/07/20 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1905/11/01 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應経 |
入社 | 助手 |
配偶者 | 諭吉 弟子娘 |
主な仕事 | フランス文学会、渡欧、「ボードレール」「惡の華」サルトル「カミユ」「三田文学ライブラリー」、塾長 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 滝沢修、中村伸郎、中村真一郎、福永武彦(開成)、武見太郎、池田弥三郎、遠藤周作、辰野隆、江藤淳、坂上弘、芥川比呂志 |
備考 | 北原武夫の仲人 |
1905年(明治38年)11月1日 – 1996年(平成8年)3月25日)は東京生まれ。フランス文学者、慶應義塾長、日本芸術院会員。フランス文学者としては、ボードレール研究とコクトー、サルトル、カミュ等の20世紀文学の紹介で有名である。また、慶應の仏文科の基礎を固めたことも業績として挙げられる。芥川比呂志、加藤道夫、遠藤周作などに影響を与えたほか、松原秀一、鷲見洋一、立仙順朗らを育てた。また、戦前に『悪の華』をはじめて全訳した。また、晩年になってから詩集『青銅の首』を上梓した。
1.遠藤周作らしさ
終戦後、本科のフランス文学科も教師が疎開していて出講できず、あまり講義のないところに、遠藤周作が堀辰雄の紹介状を持って、わが家に現れた。中世のスコラ哲学を研究したいが、中でも難物のマリタンの美学に取り組みたいという。そこで何冊かの本を貸したが、それをいつ読んだのかと思う間に、彼は論文に仕立てて来た。あちこちで結構遊んでいるという噂だったのに、いつの間にか大部の「堀辰雄論」も書き上げている。若さの情熱とエネルギーが有り余っていたせいかもしれない。
その内に学生が増えて来て、遠藤は皆の先頭に立って、どやどやとわが家に遊びに来るようになった。家の裏に神田川の支流のドブ川があった。どういうはずみか遠藤が、「オレだって太宰がやったことぐらいできる」と見栄を切って、川に飛び込んだ。浅い流れなので自殺もままならず、彼は濡れネズミとなって這い上がって来た。妻がタオルだ、雑巾だといって大騒ぎをした。4歳の息子もびっくり顔だった。
2.三田文学
これは明治43年(1910)に、永井荷風を主幹として誕生した文芸雑誌だが、いろいろな変遷を経て、戦後に丸岡明が中心になって復刊になった。そのとき私も初めて編集に参加した。編集担当として山川方夫、田久保英夫、桂芳久の3人が当たり、献身的に実務をやってくれた。埋もれた傑作や、隠れた新人を発掘するために、あれほど情熱を傾けた若者たちは、他に類があるまい。昭和29年(1954)と30年の編集を引き受け、助手としてはまだ学生だった江藤淳と坂上弘に手伝ってもらっていた。今から考えると随分ゼイタクな顔ぶれである。だからその間には、慶応以外の新人たちが大勢「三田文学」に寄稿している。
坂上弘は昭和34年(1959)に、学生時代の小説で早くも新人賞に推された。そして、三田文学系の小説家が続いて芥川賞を貰った。堀田善衛(昭和26)、安岡章太郎(昭和28)、遠藤周作(昭和30)という具合である。田久保英夫は、少し離れて昭和44年(1969)に受賞した。
三田文学の流れは永井荷風から始まって泉鏡花、水上滝太郎、久保田万太郎、石坂洋次郎という小説家の系譜と、同じく荷風から佐藤春夫、堀口大学、西脇順三郎という詩人の系譜がある。前者の中には新人が輩出しているが、詩人にも村野四郎、草野心平(中退)がいる。
3.浅利慶太
彼は慶応高校生のころから芝居をやっていたが、大学では仏文科にいた。中退して「劇団四季」を結成し、もっぱらアヌイとジロドゥーの戯曲ばかりをレパートリーにしていた。これまでの新劇を否定して、新しい芝居作りを表明したわけだ。そして写実一点張りではなくて、幻想的で、詩的雰囲気に包まれたフランス劇を、若さに溢れた演出で見せてくれた。
各大学の仏文科の先生たちがこれを応援していたが、私もその演しものをたいてい見逃さないようにした。「オンディーヌ」や「ひばり」は面白かったが、初めのころは少々手こずっていたのではないかと思った。しかしそれから10年、20年と経ち、十分にこなせるだけの力量を持った。そしてレパートリーも広げ、ミュージカルでも成功した。観ていると深く感動するようになった。