掲載時肩書 | 住友銀行最高顧問 |
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掲載期間 | 1998/07/01〜1998/07/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1908/07/28 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 90 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 東京高 |
入社 | 住友銀行 |
配偶者 | 友人妹:幼馴染 |
主な仕事 | 東京事務所、MOF担当、36歳二等兵、安宅産業問題、イトマン事件、日仏クラブ |
恩師・恩人 | 本位田祥夫 堀田庄三 |
人脈 | 中村伸郎(開成)、朝比奈隆、日向方斉、井上薫、佐々木直、安藤太郎、向井忠晴、瀬島龍三、戸崎誠喜、芦原義重、磯田一郎 |
備考 | 父:軍事教官、三島由紀夫と縁戚 |
1908年7月28日 – 2001年4月16日)は東京生まれ。実業家。住友銀行頭取・会長。関西経済同友会代表幹事、日仏クラブ世話人。頭取在任中、磯田一郎副頭取と共に経営危機に陥った安宅産業を伊藤忠商事に救済合併させたり、マツダやアサヒビールの再建に取り組んだ。日本とフランスの政財界人から成る日仏クラブの代表世話人として両国の交流に尽力したほか、1977年から大阪フィルハーモニー協会理事長を17年間務めるなど文化活動にも貢献した。遠縁に三島由紀夫がいる。
1.堀田庄三さん
お世話になった堀田さんは昭和15年(1940)2月に発足した本店東京事務所次席であったが、実際には事務所をすべて仕切っていた。事務所の人員は堀田さんを中心に数人だけ。その仕事は、戦時経済体制移行に関する情報を集めては本店に送り、一方で銀行間の密接な連携にも取り組む役割だ。大蔵省をはじめ政策官庁、各団体、日銀などが対象だった。いわゆるMOF(大蔵省)担当の元祖という人もいる。
堀田さんが役所に行くときにもよくお供をした。私の役割はそうした場での堀田さんと相手のやりとりの報告書を書くことだった。堀田さんのお蔭で、若輩ながら当時の多くの実力者たちにお会いできた。印象深いのは、迫水久常さん、岸信介さんらである。当時岸さんは商工省におられ、頭の切れる凄い人だった。福田赳夫さんとは戦後、大蔵省の主計局長くらいから懇意になって、長く付合いをいただいた。他行の人々との交遊も深まった。ゼミの先輩の第一銀行の井上薫さんや、三菱銀行の中島茂樹さんらだ。
2.瀬島龍三さん
東京事務所長時代の昭和31年(1956)夏、一人の訪問者があった。髪はボサボサ、痩せて眼だけがギョロッとしたシベリア帰りの復員者風だ。肩書なしの名刺には「瀬島龍三」。元陸軍中佐で関東軍参謀と名乗った。要件を問うと、明治時代に住友の基礎を築いた伊庭貞剛さんの伝記「幽翁」を探している、という。
伊庭さんは、明治時代に住友銅山が混乱していた状態を収拾し、50代半ばで「事業の進展を害するのは青年の過失ではなく老人の跋扈(ばっこ)だ」の名言を残してあっさり身を引いたことでも知られる。幽翁は伊庭さんの号だ。その場で伊庭家に電話して、入手の約束をした。シベリア時代の話などに耳を傾けた後、ふと「これからどうされるのですか」と尋ねてみた。瀬島さんは「抑留中は壁塗りの左官をしていたので、いざとなったら左官する」といった。中佐までした人が、本当に壁塗りが出来るのだろうかと内心思った。
そのうち、本が手に入った事への礼状が届き、さらにしばらくして左官ではなく、伊藤忠商事に入社したとの知らせがあった。それ以来、瀬島さんとは、仕事でも接触するようになった。私が頭取時代の最大案件だった安宅産業問題の際に、安宅と伊藤忠の合併交渉の伊藤忠側の担当が当時、副社長の瀬島さんという縁もあった。
3.三島由紀夫とは「君」「お前」関係
昭和45年(1970)11月25日、専務になっていた私は、東洋工業の先代社長の葬儀に参列のため、広島にいた。参列中に「三島由紀夫死す」のメモを渡された。実は、三島の父親の平岡梓と私の妻がいとこ同士関係にあった。私は妻の兄と親友で、中学時代から妻の家によく遊びに行った。そこへ、小学校に上がる前の三島が、祖母に連れられてきていたのを覚えている。
彼が大蔵省を辞めて、文筆業に専念するようになってから、私の銀行に電話がかかってくるようになった。小説や戯曲の構想中に気になる点を確かめるためだった。例えばある時、急に電話がかかってきて、こう説明する。小説の中で、亭主に死なれた妻が、残された莫大な遺産をどうすべきかを誰かに相談したいが、誰もいない。そんな時に、その女性が信託銀行の支店長に相談する筋書きは、金融の専門家から見ておかしくないか、といった調子だった。
彼は役所以外の実社会を知らないから、私に意見を求めたのだった。歌舞伎好きの彼が、ひいきの第六代中村歌右衛門のために書いた戯曲の「朝のつつじ」には、華族が夜、ダンスパーティで踊り狂っている間に、昭和の金融恐慌で華族が金を預けていた十五銀行が潰れる場面があるが、三島は執筆中に「十五銀行の倒産時の実情を知りたい。君、教えてくれないか」と銀行に訪ねてきた。彼は、10歳以上も年が離れた私をよく「君」と言い、私は「お前」と呼んでいた。
4.安宅産業問題の対応陣容
昭和48年〈1973〉5月に頭取に就任した。2年後の50年秋に安宅産業問題が発覚した。安宅アメリカはカナダの石油製油所に総額1千億円にのぼる巨額の信用供与をしていたが、実質的に支払能力を失い、破産同然の状態に陥っていた。当時の安宅本体は総合商社で業界9位の位置にあり、年商2兆円を誇っていた。安宅アメリカの銀行取引はすべて安宅産業の保証で行われており、子会社の信用不安は当然、230行に及ぶ安宅本体の取引金融機関全部に波及する。
とにかく、私は安宅問題が、日本商社全体の内外での信用不安に波及しては大変だと考えて、大蔵省と日銀へ急きょ事態を報告した。住友銀行の本店は大阪で日銀大阪支店の管轄下だから、まず中川幸次大阪支店長に密かに会い、報告した。そして直ちに上京して大蔵省の竹内道雄事務次官と、日銀の森永貞一郎総裁にそれぞれ説明した。
私の話を聞いた森永総裁は、すぐに前川春雄副総裁をその場に呼び、「これは大事にならないようにしないといけない。日銀としてもできるだけのことはやる」と約束してくれた。日銀におけるこの件の担当は、三重野康営業局長(後に総裁)がやることになった。私も当行の日銀との窓口役として東京営業部長の樋口廣太郎君(現アサヒビール会長)を指名した。
行内的には副頭取の磯田一郎君を安宅問題の担当に選んだ。頭取の私が安宅問題だけに専念するわけにはいかないからだ。磯田君を首班とする安宅専従チームには、行内の有能な人材を集めた。日銀の窓口となった樋口君をはじめ、私の秘書を務めた塚田史城君(現鳥井薬品社長)、当時はまだ若手だった現在住友銀行頭取の西川善文君らもいた。
伊藤忠商事と安宅産業の合併契約は、昭和52年〈1977〉5月31日に調印した。銀行団は総額2千億円にのぼる安宅向け債権を償却し、このうち住友銀行は1132億円を同年9月決算で一括償却することになった。合併調印式は東京・大手町の経団連会館で行った。伊藤忠の戸崎誠喜社長と、安宅の社長に当行常務から転じていた小松康君(後に頭取)が握手をして、協和銀行の色部義明頭取と私が立ち会った。