井上薫 いのうえ かおる

金融

掲載時肩書第一勧業銀行名誉会長
掲載期間1984/03/02〜1984/03/31
出身地千葉県我孫子
生年月日1906/05/13
掲載回数30 回
執筆時年齢78 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他松本高
入社第一銀行
配偶者先輩紹介娘
主な仕事為替集中決済制度発案、第一+三井=帝国銀・後分離、第一+勧業=DKB
恩師・恩人本位田祥男、酒井杏之助
人脈滝沢修・橋本竜伍(開成)佐々木直・伊部恭之助(ゼミ)柳田国男、渋沢敬三、佐藤喜一郎、八十島親義
備考先祖(手賀沼開拓)名主、
論評

明治39年(1906)5月13日-平成5年(1993)4月18日)千葉県生まれ。昭和時代の銀行家。昭和4年第一銀行にはいり,専務,副頭取をへて37年頭取となる。39年朝日銀行を吸収合併。44年会長として三菱銀行との合併計画を白紙にもどし,頭取に復帰。46年日本勧業銀行との合併を成功させ,第一勧業銀行初代会長。

1.渋沢敬三氏のお人柄
昭和4年(1929)4月に入行した10月、調査課に配属となり、私の席から斜め右手、課長の隣が担当取締役・渋沢敬三さんの席だった。渋沢さんは第一銀行の初代頭取、渋沢栄一翁のお孫さんである。渋沢さんは、はじめ横浜正金銀行に入り、海外勤務を3,4年経験した後、第一銀行に移られていた。
 しばらくたったある日、渋沢さんから「明日は自分の家の庭で民族舞踊の会をするから来い」と言われた。翌日の夕方、課の友人2,3人と三田の渋沢邸にうかがうと、現在は大蔵省の公邸となっている広い庭に、大勢の客が集まっていた。木々の間には沢山のかがり火がたかれ、その間で古い装束を身にまとった若者たちが、笛や太鼓に合わせて踊り回っていた。「飛騨の火おどり」であるという。
 驚かされたのはこれだけに止まらない。渋沢さんの広範な交際から得られる情報は幅広く、いずれも興味深いものだった。昼間は外出されていることが多く、銀行にはあまりおられなかったが、夕方戻られてからの話が面白い。趣味のことに始まり、経済界の動き、政界の裏話、そして陸海軍のことまで、入行して間もない私には意外なことの連続であった。

2.三菱銀行との合併に反対
昭和37年(1962)5月、酒井杏之助頭取の後を継いで、頭取に就任した。そして41年3月に長谷川重三郎君に継いでもらい、私は会長になった。43年の夏、長谷川頭取から「三菱銀行と対等合併したい」との相談があったが、私は反対の意向を示した。総論としては賛成でも各論では相手いかんによるからだった。
 理由は、最初は対等合併であっても、株主に三菱グループの企業が並べば、いずれ三菱色に塗りつぶされてしまうだろう。それでは渋沢翁以来、中立的な立場を貫いてきた第一銀行の特色が失われる。念のため相談役の酒井さんのほか、第一銀行のOBの方々のご意見をうかがってみても、結果は同じだった。
 次に私は主要な株主のもとに出向き、合併に対する考えをうかがってみた。株主総会は最終的な決定権を持っているからだ。最初に訪ねたのは筆頭株主の朝日生命である。数納清社長は「三菱グループには三菱系の生命保険会社がある、非常に困る」と言われた。さらに古河系、川崎系など主要株主15、6社の代表にお会いした。その結果、岡田完二郎富士通社長、砂野仁川崎重工社長はじめ全員が合併には反対された。これでは第一銀行が合併議案を株主総会に提案しても、とても承認は無理だと思った。

3.日本勧業銀行との合併に賛成
三菱銀行との合併には反対した私だが、合併そのものには異論はなく、むしろ積極的に推進すべきだと思っていた。私は行内の部長や課長との会食の機会などを利用して、第一銀行の将来ビジョン、特に合併についての考え方、さらに合併するとしたら相手はどこがいいか、それとなく聞いてみた。
するとその相手として、第一に挙げていたのが日本勧業銀行だった。当時の勧銀は、預金高、支店数、従業員数など、どの指標をとっても第一とまったく似通っていた。また、勧銀も特定の財閥を背景に持っているわけではなかった。昭和44年(1969)12月のある晩、第一銀行OBである渋沢倉庫社長の八十島親義さん(当時)が勧業銀行横田郁頭取と六本木の旅館でお会いする機会を設けてくださった。お互いに「検討しましょう」で一致し、その後、月一度ずつのペースで会った。いつも八十島さんが一緒だった。
そして46年〈1971〉10月1日、第一銀行は日本勧業銀行と正式に合併し、「第一勧業銀行」として新たな道を踏み出したのであった。新聞は「預金高一躍日本一、世界第7位に」と大きく報道したが、新銀行の門出のテープカットは澄田智大蔵次官(当時)にお願いした。

井上 薫(いのうえ かおる)

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