掲載時肩書 | 不二越鋼材社長 |
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掲載期間 | 1959/05/29〜1959/06/27 |
出身地 | 長崎県島原 |
生年月日 | 1889/11/03 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 長崎大学 |
学歴その他 | 長崎医専予科 |
入社 | 帝国製糖 (台湾) |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 南投鉄道、中越水電、不二越(仏教意味)、衆議員、不二越高校 |
恩師・恩人 | 末永道伯、小平浪平 |
人脈 | 松永東、北村声望、北島長兵衛、伊藤忠兵衛、武藤山治、池上健二、石坂泰三、福沢桃助、山田昌作 |
備考 | メジロ・ヒバリ(飼育)、不二越は善悪不二の不二(両方を認める) |
1889年(明治22年)11月3日- 1971年(昭和46年)5月10日)は長崎県生まれ。大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、不二越創業者。1913年(大正2年)11月、台湾に渡り台中の帝国製糖に入社。倉庫係、農場係、鉄道建設係で勤務。1919年(大正8年)中越水電に招かれ支配人に就任。電力の供給地域の拡大、大口需要の開拓、送電計画の策定などに尽力。その後、常務となるが、1928年(昭和3年)中越水電が富山電気(後の日本海電気)に合併されて退職。機械工具の国産化が日本の機械工業の成長に不可欠との考えから、1928年12月に不二越鋼材工業を設立した。ハクソー(金切鋸刃)から生産を始め、精密切削工具、軸受、ゲージ類の量産を実現し、1933年(昭和8年)海軍省指定工場となる。また、戦局の進展に伴い材料の特殊鋼の自家製造の必要性が高まり、呉海軍工廠の工員訓練の協力を得て、1938年(昭和13年)製鋼工場の操業を開始した。
1.中越水電入社で一から勉強
この会社に正式に入社したのは大正8年(1919)で、地位は支配人、歳は28であった。台湾の南投鉄道建設で論功行賞の意味があったらしく、森村組の貿易商社や銀行業も経営しておられた北島長兵衛から中越水電への強い勧誘があったからだった。しかし、私が着任して、最も当惑したことは、幹部社員のほとんどは私より年長者であり、しかも大学、専門学校でそれぞれ専門の勉強をしているのが多い。そこで私はいろいろ考えた結果、主任技術者の池田秀元君を呼んで「君、明日から僕を生徒にしてくれたまえ」と頼んだ。池田君は京都大学の工学部を出た優秀な技術者だった。それ以後、毎晩技師長のところに通った。一生懸命になって勉強した。これを約1年間つづけた。忙しいが大体半分以上通った。
池田技師についてだけ勉強したのではない。毎日の仕事の上で、私は分からぬことを分かったような顔をすることをしなかった。少しでも疑問があれば納得いくまで聞きただした。それもまた、職務だけでなく肝要な学習だと考えたのである。
すると社員たちの間で「新しい支配人は知ったかぶりをしない。知らないことを知らないとして一生懸命に勉強し努力する。いいマネジャーだ」という空気が生じたようである。しかし私はこれで、営業必要な電圧、周波数、馬力、燭光なども分かるようになってきた。これは私が私の職責について誠実であろうとしたまでである。
2.不二越会社創立と小平浪平氏
昭和3年(1928)12月不二越創立の運びに至った。私が不二越で機械工業に今後を捧げようという気になったのは、日立製作所の先代の小平浪平社長に会ったのが大きな原因であった。小平さんは、次のように語った。
外国の特許を買うのは確かに一方法だ。けれども、それでは会社の発展は停滞する。なるほど特許を買えば、一応その日からその水準には達する。しかし製品ができるころは、外国はさらに一歩進んでいる。次の特許を買わねばならぬ。永久に同じことを繰り返すだけである。大切なのは研究。研究は結果を買うのとは違う。結果に到達する努力である。研究による技術記録は生きている。特許にはそれがない。そのために、如何に苦しくとも、自分は天下の人材を集めて、研究をやっているのである。外国の特許には依存しない」。誠に立派な見識であり、同感であった。これでないといけないと思った。不二越創業の精神的動機については、小平さんに負うところが多い。
3.不二越の意味と精神
不二越の越は高志(こし:北陸道の古称)の意味である。次に不二越の不二であるが、これは仏語の不二である。2番目でない、第1だという意味ではない。善悪不二の不二である。私は幼少の時から宗教心の篤い母の薫育を受けた。仏教の盛んな富山に事業を興すことになったのも、いわば一つの機縁である。よくよく考えてみれば、労も資も帰一するところは一である。日本の産業を興し、民生を豊かにするということ以外にあるまい。しかし東洋流の不二は、二つは二つとして、それを認めておいて、二でないとするのである。西洋にはそうした考え方はないだろう。不二の思想は私の理想に通ずる。工具やベアリング国産化は日本の機械工業を発展させる大きい使命を持っている。日本の新しい近代産業の育成を、私の抱懐する不二の東洋精神をもって貫こうという意味がこもっているのである。
井村 荒喜(いむら あらき[1] / こうき[2]、1889年(明治22年)11月3日[3][4][注釈 1] - 1971年(昭和46年)5月10日[2][3][4])は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山市名誉市民 [4][5] 、不二越創業者。
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