掲載時肩書 | 乾汽船会長・ |
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掲載期間 | 1982/04/01〜1982/04/26 |
出身地 | 愛知県名古屋 |
生年月日 | 1907/01/28 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 名古屋大学 |
学歴その他 | 名古屋高商 |
入社 | 三井物産 |
配偶者 | 高橋>乾娘(小林一三仲介) |
主な仕事 | 日本鉄線鋼索、乾汽船、乾倉庫、広野ゴルフ修復、小野ゴルフ創設、JPA統一、光悦会、ゴルフミュージアム |
恩師・恩人 | 父友:益田孝、横田正成 |
人脈 | 石井光次郎、田中精一、小林米三、鳥井吉太郎、高畑誠一、朝比奈隆、松永安左衛門、千宗室、五島慶太、団伊能 |
備考 | 新婚旅行(世界一周・9月間)、父:名古屋財界人 |
1907年1月28日 – 1993年9月20日)は愛知県生まれ。実業家。乾家5代目当主、元乾汽船会長。元広野ゴルフ倶楽部理事長、関西ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会(JGA)名誉会長。実父高橋彦治郎は、中京財界の大立者といわれた人物で、茶人、美術収集家でもあった。幼少から父の勧めで書道、能楽、茶道などを習っていた。
1.第二次世界大戦時中の造船
乾汽船の方は就航するそばから沈められた。乾坤丸、乾隆丸のように20年は十分使えるという新造船が8年も経たないうちに沈められてしまう。戦争末期には、門司、下関などを出たとたんに米潜水艦に狙い撃ちされるという状態で、多数の乗組員が道連れになって南海に消えていった。乾汽船だけで、戦争中に6隻の新造船を含めて14隻、5万2千166トン、帳簿価格でも1千217万円を喪失したのである。
戦時中、乾汽船の持ち船はすべて軍に徴用され、沈没しても軍が補償した。そのため、船に保険はかけなかった。沈没すると、船価に相当する金額が軍から支払われ、それでまた新造船を造った。こうなると、戦争末期には撃沈されるのが分かっているのだから、建造費の高い船はどこも造らない。特に昭和17年以降、新造船の発注を「産業設備営団」という統制組織に一元化してからは特にひどかった。
造船所の人手不足と資材の不足を補いながら船腹の増強を図ろうというのだから、いい船ができるわけがない。「戦時標準船」と呼ばれたこの頃の船は、まさに大量生産システムに乗せた“低性能・粗悪品”で、こんな船に乗船した船員が可哀そうだった。
結局、戦争が終わった時には、5隻(1万438総トン)が残ったが、全部戦時標準船だった。戦後は殆ど使い物にならなかった。沈没船の戦時補償も、敗戦で打ち切りとなったから、船会社は二重のパンチを受けたことになる。
2.広野ゴルフ場とアリソンバンカー導入
昭和22年〈1947〉9月に、兵庫県・広野ゴルフ倶楽部の復興を引き受けたが、祖父乾新兵衛はゆかりの深いゴルフ場だったのでその設立時の思い出をいろいろ語ってくれた。
昭和4年〈1929〉頃、英国の著名なゴルフコースの設計者チャールス・アリソン氏が、埼玉県の朝霞にゴルフコースを設計するため、来日していた。アリソン氏は大自然の姿をそのままの深いバンカーを好んでつくり、今日「アリソンバンカー」としてつとに知られた名設計家である。
鋳谷正輔(川崎重工社長)氏を始め広野創立発起人ら10人が5百円ずつ拠出、高畑誠一(日商会長)氏の交渉によりアリソン氏に設計を頼んだ。こうしてでき上ったアリソン氏の設計は絶妙といえる出来栄えで、図面を見た高畑氏は、そのとき「これなら超一流のコースができる。実に傑作だ。万難を排して資金を集めなくては・・・」と思ったそうだ。
直ちに鋳谷氏を代表にして祖父ら18人が創立発起人となり、昭和6年2月に工事に着工した。当初の予算は32万円位であったが、次第に膨れ上がって50万円を要したものの、昭和7年6月にアリソン氏の原設計通りの18ホールが完成した。
3.日本ゴルフ協会(JGA)を統一組織に
昭和37年(1962)当時、JGAはここのクラブの直接加盟方式を採用していた。このため、JGAの加盟は関東勢が圧倒的に多く、関西のゴルフクラブは関西ゴルフ連盟には入っているが、JGAには加盟していないところが多かった。これでは日本ゴルフ協会は日本のゴルフクラブを代表していないし、ゴルフ界の体制はまちまち過ぎる、というわけだ。日本ゴルフ協会の改組こそ、日本ゴルフ界の強化につながる。私はどうしてもこの改組を成就しなければならないと、心に決するところがあった。
そこで日本ゴルフ協会会長石井光次郎、副会長野村駿吉、専務理事小寺酉二、常務理事山縣晋、同細川護貞など、関西側は私を中心として中部ゴルフ連盟の佐々部晩穂理事長、関西ゴルフ連盟の田中太一常務理事、九州ゴルフ連盟の安川寛理事長などの支援と協力をお願いした。その後いろいろ紆余曲折があったものの、43年(1968)、時の関東ゴルフ連盟横田正成理事長の英断により、遂にJGA改組に踏み切った。
そして翌44年、日本ゴルフ協会は、従来の個々の直接加盟方式をやめ、各連盟単位に加盟するよう会則を改めて、いったん解散、再発足することになった。かくて46年1月には、地区連盟入会、即日本ゴルフ協会加盟というピラミッド型統一組織が出来上がった。永年の懸案が片付いてホッとしたのだった。