掲載時肩書 | 歌舞伎俳優・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1981/03/02〜1981/03/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1917/01/20 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 6歳で初舞台 |
配偶者 | 父の踊り弟子 |
主な仕事 | 左足不自由、青年歌舞伎(仁左衛門、守田勘弥)、六代目襲名、新派と共演、外国出演(欧米) |
恩師・恩人 | 仲人大谷竹次郎 |
人脈 | 今福祝アナ、東山千栄子、東野英治郎、山田五十鈴、長谷川一夫、勘三郎、三島由紀夫、 |
備考 | 成駒屋(中 村)父5代目歌右衛門 |
1917年(大正6年)1月20日 – 2001年(平成13年)3月31日)は東京生まれ。歌舞伎役者。先天性の左足脱臼が悪化して数年寝込み、大手術を行ってやっと歩けるようになったといわれる。そのため、歌右衛門の左足の動きは終世ぎこちなかった。生涯を通じて歌舞伎に専念し、戦後の歌舞伎界における女形の最高峰と呼ばれた。
1.自宅は御殿
父は大正3年(1914)、千駄ヶ谷に新築しました。土地は全部で約三千坪、家は約二百坪の総平屋建て、それに使用人の長屋がありました。私たちの住む母屋は門から玄関まで30mほどあり、門の前がバス停になっていて、車掌さんが「千駄ヶ谷一丁目、中村歌右衛門邸前」と大声でいっていました。家は玄関、広間、茶室、金光さまの祭壇のある広間、父の居間、寝室、兄の居間、私の居間、女中部屋のほか玉突き場がありました。こんな大きな家に父母と兄と私の家族は4人ですが、使用人が22,3人おりました。
内訳は、まず女中が10人あまり、父づき、母づき、兄づき、私づきのほか飯炊き専門、掃除専門、洗濯専門、使い走り専門までがそれぞれ1,2人いて、そのほか経理係、書生、運転手、内弟子、火の番から請願巡査が二人もいました。(昔、請願巡査は特別にお願いすると有料で巡査を派遣してくれました)
家の間数が多いせいか、廊下がたくさんあり、毎晩火の番のおじさんがカチカチ拍子木を鳴らしながら廊下を歩いていたことを思い出します。
2.芸の格と進歩
母が亡くなった昭和7年(1932)7月、青年歌舞伎が結成されましたが、顔ぶれは片岡我当さん(現仁左衛門)、坂東志うかさん(故守田勘弥)に私が中心でした。この青年歌舞伎は、若い者に修行の場を与えて将来ひとかどの歌舞伎役者に育てようというのが目的で、若手の多くに大役をさせていただきました。
こうして青年歌舞伎で大きな役を勉強する一方、歌舞伎座、東京劇場、明治座など大劇場の父の一座にかけ持ちで出させてもらい、腰元や端役の女形を勤めました。ここで考えさせられることは、若手同士で大役を勤める一方、大舞台の大幹部にまじって端役の勉強をすることがどれほど大事であるかがよくわかったということです。
つまり腕の同じ若手同士でいくら大役を勤めたからといって、一応役はこなせても内容ができません。目に見えない奥深さとか芸格というものが備わらないのです。やっぱり相撲と同じで三役や横綱の胸をかりて体当たりしてこそ、進歩があるのと同じことです。こうして青年歌舞伎で大役を勉強しながら、大舞台で大先輩の胸を拝借して端役の修業をしたことが後年私にとってどれだけプラスになったかわかりません。
3.三島由紀夫先生の思い出
昭和26年(1951)11月ごろ、三島先生と初めてお目にかかりました。第一印象は大変なテレ屋とお見受けいたしました。いわばまだ学生気分が抜けきれない感じで、もじもじしてあまりおしゃべりをしませんでしたが、そのうち打ち解けて世間話から芝居の話に花が咲きました。お話をしているうちにたいへん歌舞伎にお詳しいことがよくわかりました。そこで、脚本をお願いしたところ「一つ何か書いてみましょう」とのお返事。
28年(1953)の秋、芥川龍之介作の「地獄変」を脚色してくださり、12月歌舞伎座で初演し、私は露草で、画家は勘三郎さんでしたが、新機軸の作品という評判をいただきました。それ以後、続いて「鰯売恋曳網」「熊野」「帯取池」「大内実記」という一連の傑作を年に一本ぐらいのわりで書いて下さいました。しかし、脚本の構成、人物の設定にいたるまで私は勝手な注文を出し、あちらはあちらで私の注文に反ばくしたり、お互いに言いたい放題の論戦を展開したことが懐かしく思い出されます。