掲載時肩書 | シンガポール上級相 |
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掲載期間 | 1999/01/01〜1999/01/31 |
出身地 | シンガポール |
生年月日 | 1923/09/16 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 英国ケンブリッジ大学 |
学歴その他 | ラッフル カレッジ |
入社 | 弁護士 事務所 |
配偶者 | 弁護士・学友 |
主な仕事 | 英国から独立、首相(35)、マラヤと統合、マレーシア から独立、マスコミ規制、エリート養成、罰則の必要性、 |
恩師・恩人 | アントニー・ヘッド |
人脈 | ラーマン、スカルノ、スハルト、ナセル、池田首相、郷司浩平、ゴー・チョクトン(後任) |
備考 | 投票権(国家貢献を考慮すると25~60歳は2票案) |
1923年9月16日(旧暦8月6日) – 2015年3月23日)は、シンガポールの政治家、初代首相。1963年9月16日、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったが、連邦は短命に終わる。統一マレー国民組織(UMNO)によって支配されているマレーシア政府は、シンガポールの住民の大多数を占める華人系住民の包含と、マレーシアにおける人民行動党の政治参加に懸念を抱くようになった。リーは公然とブミプトラ政策の「マレー人などの土着民を優遇するマレーシア」に反対し、人民行動党のスローガンとして「マレーシア人のためのマレーシア」を主張した(当時シンガポール島の華人系住民もマレー人も含めて「マレーシア人」であり、マレー人のみへの優遇政策を批判した)。このことから双方の関係は悪化してしまい、UMNOの中にはリーの逮捕を主張する者もいた。
1.シンガポール解放
1945年9月12日午前10時半、私は日本軍の降伏式が行われる市の中心部にあるシティホールへ歩いて行った。板垣征四郎大将を筆頭に日本軍将官が英国の憲兵に付き添われて到着した。群衆から罵声を浴びせられる中、彼らの足取りは毅然としていた。
45分後、英軍東南アジア司令官のマウントバッテン卿が将軍、提督、連合国軍のインド人、中国、オランダの高級将校を伴い、会場に姿を現した。彼は右手で海軍の帽子を高く掲げ、兵士にエールを送った。
だが、3か月もたたないうちに人々の期待はしぼんでいった。戦前の植民地のビジネスは再開されず、公務員さえ職がなく、かっての生活はいっこうに戻ってこない。電気や水道、道路なども回復せず、我々は皆、古き良き時代への期待が大き過ぎたと悟るようになった。意外だったのは、我々シンガポールの人々の中に英国の復帰を望まない勢力がいたことだ。
2.労働争議で英国と交渉
1951年8月7日シンガポール最高裁判所から正式に弁護士資格を取得した。52年初め、マレー人とインド人の郵便配達組合の代表が事務所を訪ねて来た。英国当局との賃金改定交渉で要求が受け入れられないため弁護活動をして欲しいとの要請だった。これが私にとって初めて英国植民地当局との対決の場となった。英国当局にとっても48年に非常事態宣言を出して以来、初の本格的な労働争議だった。政府は分が悪く、労働者はいきりたち、共産勢力が大衆行動に出る条件が出てきたのである。
5月に入っても交渉は決着しない。私はシンガポール・スタンダード紙のラジャラトラム副編集長に会い、組合の言い分の正当性を詳しく説明しておいた。もともと英国当局に批判的だった彼と意気投合、闘争の終結まで報道で援護射撃をしてくれた。5月13日、彼らが平和裏にストライキを始めた日、治安当局は武装グルカ兵を警備に派遣した。翌日、厳重な警備の写真と組合側の穏健な声明を対比した記事が掲載された。世論は組合側に同情的だった。
私は合法闘争を指導、英国仕込みの丁寧な語り口ながら、理詰めで要求の正当性と当局の理不尽な態度を攻撃した。当局側も慣れない事態に混乱、結局英国側のメンツを立てながら平和裏に賃上げの譲歩を引き出した。共産党とは違い、暴力に訴えずに成功させたのである。交渉の一部始終は大々的に報道された。マスコミと私の共同作戦の勝利だった。英国当局に立ち向かった弁護士として私の名はシンガポールに知れ渡った。
3.シンガポール独立、国家建設へ
1965年8月9日、シンガポールはマレーシアから突然追い出される形で独立した。私は63年のマラヤとの合併への支持を求める際、国民に対し「我々は単独では生存することはできない。我々の経済や政府はマレーシアの一部でないと成り立たない」と説明。これで、有権者の7割が合併を支持してくれたのだ。
しかし、合併はうまくいかず、我々は一転、独立を押し付けられた。人口200万のシンガポールは生存できない状況に追い込まれたのだ。私も、人々に合併を最優先で訴えてきた同僚たちも、がく然とした。すべての努力が無になり、支持者を裏切ることになった。
マレーシアのラーマン政権が我々を追い出した本当の理由は、我々に政治的権利の行使を許し続ければ、将来、彼らが負けると見越したからだ。マレーシア団結会議を結成していた人民行動党(PAP)や各野党は中国系の非マレー人を結集、マレー人に食い込むだろう。PAPの政策と姿勢はシンガポールのマレー人指導者に揺るぎない信頼を得ていた。享楽を求めたり、私腹を肥やそうとはしなかった。ラーマン政権は当初、独立シンガポールは存続できず、1,2年後にシンガポールが今度はマレーシアが示す条件を全面的に飲む形で再びマレーシアに加えて欲しいとすり寄ってくるもの、と考えていた。
だから我々は、マレーシアの一部であることを前提に考えていた国の経済発展策を考え直すばかりでは済まなかった。独立国として安全保障や外交まで自力で手掛けることになり、軍や外務省の創設など独立国としての体裁を整え始めた。
氏は、’15年3月23日91歳で亡くなった。「履歴書」に登場したのは1999年1月で76歳のときであった。アジアでここに登場したのは、マハティール(マレーシア)、孫平化(中国)、スハルト(インドネシア)、リー・クアンユー、ラモス(フィリピン)、ラタン・タタ(インド)の順で6名である。
氏は、59年に英連邦自治州の首相に35歳で就任し、65年にマレーシアから独立後も25年にわたり首相を務め、「建国の父」と呼ばれた。他の東南アジアの諸国に先駆けて「工業・貿易立国」を掲げ、空港、港湾、工業団地などインフラ整備を進めた。税制優遇などを通じて外資の誘致を進め、東京23区ほどの面積の小国を外国企業が集積するアジア有数のビジネス拠点に育てた。内政では多民族で構成する社会の安定に力を注いだ。与党の事実上の一党支配、言論の制限(マスコミ統制)、ムチウチの厳罰など強権的手法も用いて統治した。海外から「非民主的」とも批判されたが「小国にとって内政の安定は極めて重要」と反論した。この論理は大国だが今の中国政権に当てはまる。
面白かったのは、氏の「履歴書」にはマレーシアのラーマン首相やスカルノ、スハルト、マルコスなどASEAN首脳陣の名前は頻繁に出てくるのであるが、マハティール首相の名前は出てこなかった。シンガポールがマレーシアに統合されたあと、議会では「マレー人優先政策」を提唱するマハティールと「中国人・インド人も優遇する」クワンユーは対立する論敵となっていた。これがもとでシンガポールは追放される形で独立することになる。マハティールは東京での国際会議の晩餐会でクワンユーと隣り合わせになったのには苦笑したと書いている。よほど両者はライバル意識を持っていたように思える。クワンユーの方が、彼より2歳年上なのでプライドが高かったのだろうか?
リー・クアンユー/李光耀 Lee Kuan Yew 李光耀 | |
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1975年 | |
生年月日 | 1923年9月16日 |
出生地 | イギリス 海峡植民地、シンガポール |
没年月日 | 2015年3月23日(91歳没) |
死没地 | シンガポールシンガポール中央病院(英語: Singapore General Hospital) |
出身校 | ケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジ ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 人民行動党 |
称号 | 旭日大綬章(1967年) 桐花大綬章(2015年) |
配偶者 | クワ・ゲオ・チュー(1950年 - 2010年) |
親族 | リー・シェンロン リー・ウェイリン リー・シェンヤン |
在任期間 | 2004年8月12日 - 2011年5月21日 |
首相 | リー・シェンロン |
在任期間 | 1990年11月28日 - 2004年8月12日 |
首相 | ゴー・チョクトン |
在任期間 | 1959年6月3日 - 1990年11月28日 |
大統領 | ユソフ・ビン・イサーク ベンジャミン・ヘンリー・シアーズ チェンガラ・ヴェーティル・デヴァン・ナイール ウィー・キムウィー |
人民行動党書記長 | |
在任期間 | 1954年11月21日 - 1992年11月1日 |
後任者 | ゴー・チョクトン |
シンガポール国会議員 | |
選挙区 | タンジョン・パガーGRC タンジョン・パガーSMC(1955年 - 1991年) |
在任期間 | 1955年4月2日 - |
得票差 | 無投票当選 |
リー・クアンユー(英語: Lee Kuan Yew, 漢字表記、中国語: 李光耀、日本語読み:り こうよう、 1923年9月16日(旧暦8月6日) - 2015年3月23日)は、シンガポールの政治家、初代首相。