掲載時肩書 | 前駐日米大使 |
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掲載期間 | 2009/01/01〜2009/01/31 |
出身地 | アメリカ合衆国テネシー州 |
生年月日 | 1925/11/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 米国テネシー大学 |
学歴その他 | |
入社 | 法律事務所 |
配偶者 | 上院重鎮娘、ナンシー上院議員(知日派)と再婚、 |
主な仕事 | 上院議員、ニクソン糾弾、上院院内総務、SOLT2、レーガンの首席補佐官、駐日大使、9.11、日米戦略アドバイザリー |
恩師・恩人 | 祖母(郡保安官)、義父:ダークセン上院議員 |
人脈 | E・ケネディ、ブッシュ父・息子、コリン・パウエル、アーミテージ、小泉純一郎、福田康夫 |
備考 | 偉大なる調整役者 |
1925年11月15日 – 2014年6月26日)はアメリカ合衆国テネシー州の生まれ。政治家、連邦上院議員(テネシー州選出、1967年 – 1985年)。上院で少数党院内総務(1977年-1981年)、多数党院内総務(1981年 – 1985年)を務める。その後レーガン政権で大統領首席補佐官(1987年 – 1989年)。ジョージ・W・ブッシュ政権で駐日大使(2001年 – 2005年)。所属政党は共和党。宗教は長老派で愛称は大物である。急進的な保守派の多い南部出身の共和党員の中にあって、穏健派の重鎮と看做された。
1.パナマ運河返還
太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は長い間、米国にとって戦略的な要衝だった。この運河について、米・パナマ両国は米側に独占的な運営権を与える「パナマ運河条約」を結んでいた。後にこの条約は米・中南米間に横たわる「不平等関係」の象徴となり、中米諸国における反米感情を生み出す源になっていた。
1977年8月、カーター大統領はパナマ国内での反米感情の高まりなどを睨み、パナマ運河返還を決断、新たな条約をパナマと締結する考えを発表した。それまで米国が独占していた運河運営権を1999年12月31日正午(パナマ時間)にパナマに返還するという内容だった。大統領の新方針に対して、米世論は一斉に反発した。当時の世論調査によれば、回答者の78%が運河返還に反対で、賛成はわずか8%だ。
私は上院院内総務で共和党のリーダーとして、世論を納得させる必要があるとして、様々な意見を聞き、この問題を真剣に考えた。結果、新条約締結が南米諸国のモラル回復だけでなく、長期的には米国の安全保障にも資するとの結論に至った。
そこで78年1月、私はカーターの了解を得て、同僚議員とともにパナマに向かった。当時、軍事クーデターでパナマの支配者になっていたのはトリホス将軍である。会談の席上、「米国上院は新しい条約を批准するのか」と尋ねるトリホスに私は「修正条項を付帯しなければ無理だ」と指摘、その場で2つの修正条項を手渡した。そこには有事の際、運河先端に米艦船が展開できること、運河閉鎖を試みる勢力に米軍が武力をもって対抗すること、の2つが記されていた。
それから20年以上たった1999年12月14日、パナマ運河の返還記念式典が行われた。式典にはクリントン大統領の名代として出席したカーターの顔もあった。
2.米ソ会談の内幕(ソ連の対中国)
1979年の年末、ソ連の大部隊が突然、アフガニスタンに侵攻を始めた。この背後に私はソ連によるSALT2批准問題への揺さぶりの意図を感じ取った。この時、どこか憎めない性格を持ちながら、狡猾な側面を見せるソ連のブレジネフ共産党書記長とのやりとりを私は即座に思い出した。
クレムリンで会談した際、ブレジネフはニクソンによって路線が引かれ、79年にカーターが実現した米中国交樹立について、ロシアの昔話を引用しながら、その無効性を強調した。ブレジネフの話を要約するとこうだ。ある日、二人の猟師が森に狩りに出かけた。やがて一人が熊(この場合は中国を指す)を見つけ、「熊を見つけたっ」と叫ぶ。もう一方の猟師が「こっちに連れてこい」と言うと「熊は来ない」と言う返事。「それなら、お前がこちらに来い」と応じると「いや、熊が私を行かせてくれない」と言う声が返ってきた・・・・・。
こんなたとえ話で米中の戦略的接近を嘲笑したブレジネフの得意げな顔を私は忘れない。
3.レーガン大統領の首席補佐官に
上院院内総務で政界を引退後、私は親しい人間に二期目のレーガン政権で閣僚として働く用意があると内々に伝えていた。フロリダでレーガンからの電話を受けた翌日、ホワイトハウスに出向くといきなり主席補佐官のポストを提示された。電話を受けた時点で、ある程度の想像はついていた。この頃、レーガン政権は発足以来、最悪の時期を迎えていたからである。大統領を支えるはずの女房役・リーガンは既に求心力低下が著しく、「リーガン更迭」も時間の問題とされていた。私が議員引退を決めた理由の一つは再度、大統領選への挑戦の機会をうかがうことだった。しかし、この時点で首席補佐官のオファーを受けることは、すなわち88年の大統領選への出馬断念を意味する。
元来、「調整役」を自任する私はリーガンとは違うタイプの首席補佐官になろうと決めていた。だが、幸か不幸か私には、かってこの手で追求したウォーターゲート事件と並ぶ政治スキャンダル、イラン・コントラ事件の真っただ中でレーガン政権はもがいていた。その台所を取り仕切る首席補佐官には文字通り、「待ったなし」の対応が迫られていたのである。
4.駐日大使に就任
未曽有の混乱を経て2000年の大統領選を勝ち抜き、第43代米国大統領となったジョージ・W・ブッシュJrは政権内に多数の知日派を配置し、対日重視の姿勢を示そうとしていた。そのブッシュの命を受け、大統領首席補佐官のアンディ・カードが電話を入れてきたのは2001年の初春。「大統領が駐日大使の職をお引き受け願いたいと申しております」。明確な返事もしないまま数日後のワシントン・ポスト紙の社主、キャサリン・グラハム主催の夕食会に出向くと、ブッシュに鉢合わせた。ブッシュ本人が私を見つけ、手招きする。
歩み寄ると「ハワード、これは真面目な話だ。是非、駐日大使になって欲しい」と真顔で言う。「本当にお望みなら、お引き受けしましょう」。大統領からの要請に弱い私もその場でそう請け負ってしまった。これは後で聞いた話だが、私を駐日大使に推したのは国務長官に就任したコリン・パウエルだった。パウエルの盟友で国務副長官となった知日派、リチャード・アーミテージも即座に同意。これを受けて、パウエルからブッシュに考えを伝え、大統領もこれに乗ったという流れである。
正式発表から2か月後の6月26日、大統領や知日派の妻ナンシーが見守る中で私は駐日大使就任の宣誓式に臨んだ。通常は大統領執務室で事務的に行われるが、この時は250人もの人間が出席。私の背後には当時、98歳になっていたマンスフィールドを始め、モンデール、アマコスト、フォーリーの歴代駐日大使も勢ぞろいしていた。
氏は、’14年6月26日に88歳で亡くなった。ベーカー氏は今までの外国人執筆者29人の一人であるが、米国人では17人のうち、政治家のJ・フルブライト、M・マンスフィールド、W・ペリー、G・ブッシュ、C・ヒルズの6人の中に入っている。氏は、生前「アンバサダー(大使閣下)」よりも「セネター(上院議員)」と呼ばれることを好んだと言われる。
彼の執筆の中で特に印象深かったのは、同じ共和党で個人的に親しかったニクソン大統領をウオーターゲート事件で追求する調査委員会の副委員長を引き受けた記述だった。友人としてニクソンに会い、「誠実に対応して欲しい」と要請するが、ジッと押し黙ったままで、側近を証言台に立たせるように促すと、ニクソンは声を低めて「それを拒否」したという。この瞬間、彼はこの事件に対する考え方を根本から改めなければならないと悟ったと書いている。
そして、ニクソンに「大統領は何を知っていたのか。そして、それをいつ知ったのか」という米政治史に残る名文句で真相解明を迫った。この言葉は彼の政治家としての名声を高め、後々にも大統領による権力の乱用を牽制する際の決まり文句になった。この後、上院院内総務や大統領特別補佐官など要職を歴任し、75歳で駐日米大使に就任した。