G.W.ブッシュ ブッシュ

政治

掲載時肩書前米国大統領
掲載期間2011/04/01〜2011/04/30
出身地アメリカ合衆国
生年月日1946/07/06
掲載回数29 回
執筆時年齢65 歳
最終学歴
米国ハーバード大学
学歴その他イエー ル大
入社石油会社
配偶者2か月で求婚
主な仕事球団オーナー、州知事、大統領、9.11、 イラク、リーマン、北朝鮮、
恩師・恩人
人脈ゴア(大統領相手候補)、チェイニー(副)、パウエル(国)、ライス(安全補佐官)、小泉首相、ブレア首相、
備考メソジスト MBA取得者(大統領で初めて)
論評

1946年7月6日 – )は、アメリカ合衆国の政治家。同国第43代大統領(在任: 2001年1月20日 – 2009年1月20日)、第46代テキサス州知事(在任: 1995年1月17日 – 2000年12月21日)。第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュは父である。2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を受け、ブッシュは世界的な「テロとの戦い」を発表した。ブッシュへのアメリカ国民の支持率は同時多発テロ事件後、歴代のアメリカ合衆国大統領の中で最高値である91パーセントにまで達した 。父を「大ブッシュ」と呼ぶのに対して、息子の方を「小ブッシュ」と呼ぶこともある。父を「ブッシュ・シニア」と呼び、息子の方を「ブッシュ・ジュニア」と呼ぶ例もある。

1.2001年9月11日(テロ当日)
この日、時計の針は午前9時を回ろうとしていた。「我が国が攻撃にさらされています」。遊説先のフロリダ州で小学校を訪れていた私にアンディ・カード首席補佐官がそう耳打ちした。この時、すでにニューヨーク摩天楼の象徴、世界貿易センタービルに2機目の旅客機が突入し、未曽有の惨事を引き起こしていた。
 この国家的危機に際して、すぐにでも陣頭指揮を執りたい。だが、こうした異常事態において、米国のシステムはあらゆる危機から大統領を守る方向に作動する。つまり、私の身を守るシークレットサービスは大統領専用機、すなわちエアホースワンで首都に向かうことに反対したのである。犯行グループが私の乗る大統領専用機も狙っている情報もあり、やむなく、ワシントンへの直帰を諦め、ルイジアナ、そしてネブラスカという2つの州に迂回するルートをとることにした。機中に乗り込む際、国家安全保障問題を総括するコンドリーザ・ライス大統領補佐官から、「ニューヨークだけでなく、ワシントンの国防省も同様の自爆攻撃を受けている」との電話が入った。即座に私は米国に対する「宣戦布告」と受け止めた。

2.米ロ新時代(トップ合意で核軍縮)
大統領に就任してから半年ほどたった2001年6月半ば、ウラジミール・プーチン大統領と会談した。この場で私はプーチンに「もはや、あなた(ロシア)を敵とはみなしていない」と真っ向から告げた。その上で冷戦時代に米ソ間で成立していた弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の「役割は終わった」という考えを率直に伝えた。プーチンとの初対面から半年後、私は自らの言葉通り、ミサイル防衛(MD)構想を早期に実現するため、1972年に旧ソ連と結んだABM条約からの脱退をロシアに通告した。
 今だから言えるが、実はプーチンとの初会合の席上、私は「我々が保有する戦略核兵器を6600発から2000発程度にまで一方的に削減するつもりだ」と伝えている。会談後の公式発表では「新たな戦略的な枠組みを模索する」とだけ説明していたが、実際にはそこまで具体的に提示していた。この時、プーチンには「(大幅削減に)参加したければ、そうしてほしい」とだけ告げている。そして、彼は自分自身の判断でこれに応じることにした。この時のやり取りが後に米ロ間の大幅な核軍縮合意となった「モスクワ条約」となった。
 これは今でも画期的なことだと思っている。それまでの米ソ間の核軍縮条約には不可欠だった、専門家同士による長たらしい交渉など一切ない。ただ、私とプーチンの2人の指導者が「よし、やろう」となって、合意したからだ。そしてその1年後に「モスクワ条約」となって実際に、日の目を見たのである。

3.イラク戦争・・早すぎた勝利宣言は失敗
2003年3月19日午後9時半過ぎ、米英合同軍はイラクへの軍事作戦を開始した。開戦から26日経った4月14日、米英軍はフセイン大統領の故郷であるイラク北部のティクリートを完全に制圧。これにより、イラク全土の掌握が完了し、名実ともにフセイン政権は幕を下ろした。
 5月1日、私は空母エーブラハム・リンカーンの艦橋に降り立った。多数の兵士に囲まれながら、「イラクの戦いで米国と同盟国は打ち勝った」と呼びかけた際、私の後ろでは「任務完遂」の垂れ幕が踊っていた。だが、実際には大量破壊兵器(WMD)の発見という難しい仕事が残っていた。それを伝えたかったのだが、実際には勝利を宣言したと受け止められてしまった。それは大きな失敗だった。

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