私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

魚の習性

実業家。大洋漁業(現・マルハニチロ)元社長。プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。幾徳工業高等専門学校(後の神奈川工科大学)を設立するなど、教育界にも大きな功績を残した。父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の中部幾次郎。

 中部は明治45年(1912)の16歳のとき、父親から朝鮮半島沿岸部全域を担当する部隊の采配を任されることになった。そのとき定置網業の最優秀の漁場は既存業者に占領されており、残った漁場は収支が合うのが三分の一しかなかったが、3~5年と改良、改良でねばった。その結果、5~10年経つといい漁場は移動するもので、かっての良漁場は衰退し彼の購入した人里離れた所や潮の速すぎた漁場が残ることとなった。そして最後には朝鮮の定置網漁場でいちばんいい所はほとんど林兼の支配下になったという。
 そして次に狙ったのがブリであった。ブリという魚は寒ブリで冬が旬でいちばんうまく、需要も多かった。定置網漁業には成功したけれど、彼の漁場には、冬にとれる所は少なかった。そのブリの最優秀の漁場は巨済島(韓国・釜山市の南西に位置し、韓国では済州島に次いで2番目に大きな島)の湾内で、十二月十日から下旬までブリの最盛期にドカドカとれていた。
 ところが、林兼の北朝鮮の漁場では夏にいちばんとれ、せいぜい秋の初めまでだった。そういうのは一尾一円程度、同じくらいの大きさでも巨済島のブリは十倍くらいの値であった。自社品を冷凍にして冬に出しても痩せていて良い商売にはならなかったという。
 そこで彼は次のように考え実行した。

夏にとったブリを十二月まで生かしておけぬものかと考えた。清津の少し北の梨津でとれたブリを洛山湾という人里離れた静かな湾まで運び、そこを網で囲って最初に一万尾ほどを放した。イワシなどの餌をやって育てていると、二貫五百ほどの夏ブリはめきめき太ってりっぱなブリになった。しめしめ、十二月の半ば過ぎにとれば大成功だと、あとを託して下関へ帰った。ところが十一月の初めに急電が飛び込んで、ブリは皆網を飛び越えて逃げてしまったと知らせてきた。残ったのは死んだやつを入れて数百尾くらいだという。おどろいてすぐ咸北の漁場の人を呼び事情をよく調べてみると、ブリには適温の限度があることがわかった。北鮮では十一月ごろになると、ブリには低すぎる水温になるのだ。逃げる一週間ほど前から元気がなくなり、餌を食べなくなったという。南の適温の海に下る習性を無視されたわけなのだ。残ったやつは網を飛び越せない弱いのばかりだったわけである。そこで次の年からは、ブリが餌を食べずおとなしくなったときに引き揚げることにした。そして年々ブリの飼育をふやしてゆき、夏にとったブリが数倍になり、業績を大いに貢献した。

 へぇー、水温と密接に関係があるのかとこの時初めて知ったのでした。そしてネットで調べてみると、「海は日変わり、時変わり」と書いてある。その真意を、魚は海水温度や塩分濃度の変化の他、餌とする甲殻類や小魚群に附けて広範囲を頻繁に移動する。又、イルカやブリなど自分を襲う天敵魚に追われて常に居場所を替える。極端な時には、日単位、時間単位のこともあると。そして長期間釣れていた魚の姿が、数日のうちに消え失せることもよくある。海水温の変化や天敵魚に追われるのも一因だが、近隣海域で甲殻類や小魚群が濃密となり、これらを狙って移動したに他ならないという。なお、その移動距離は数㌔、数十㌔先になるので漁場が変化するのは当たり前だと書いてある。


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