私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

逆境に不屈の闘志

日本の実業家・発明家。総合家電メーカーシャープ創業者。シャープペンシルやバックル「徳尾錠」の発明で知られ、ラジオ、テレビ、太陽電池、電卓でも事業成功した人物である。

早川は1893年(明治26年)、東京市日本橋で生まれる。9歳で錺屋(かざりや:金属細工業)職人・坂田芳松の店で丁稚奉公することになる。そこで金属細工の技術を仕込まれ、ベルトのバックルの一種「徳尾錠」を発明するが、大正元年9月、19歳で独立する。大正4年(1915)、早川姓に復籍して「早川式繰出鉛筆」の名称で特許を申請し、兄の政治と販売を開始した。しかし、評判は芳しくなく、全く売れなかった。それでも根気よくの努力を続けるうちに第一次世界大戦で品薄となった欧米で売れるようになり、海外での高い評価が伝わると日本国内でも注文が殺到し、事業発展の源となった。
 ところが大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で工場は壊滅、そして二人の子供(男子の9歳と7歳)を亡くし、それがもとで妻も半病人となりしばらく後に亡くなる。彼は一瞬にして事業を失い、自分の家庭までも無くした。31歳であった。
悪いことは重なるもので、そのとき関東地区で販売を委託していた日本文具製造(後のプラトン文具:1954年廃業)から、特約販売の解消及び「特約契約金1万円と融資金1万円の計2万円」の即時返済を迫られた。難しい交渉の結果、相手企業が事業継承のために早川兄弟商会の主な技術者を雇い、技術移転のため彼本人も技師長として6か月雇うこと、等で合意した。
このため一技師長として大阪に移り住むことになった。1924年(大正13年)8月、契約を満了して日本文具製造を退社する。彼は大阪で再起を図ることを決意し、関東大震災から1年後の1924年(大正13年)9月1日、「早川金属工業研究所」(現シャープ株式会社)を設立した。この出発点を次のように語っている。
 
 再起2年目、大正14年の春である。運命は私に幸いした。その前年末、心斎橋(大阪)のかの石原時計店にアメリカから輸入されたラジオ機械が2台だけ着いたのである。そしてたまたまそこへ行きあわせた私は、その新着の鉱石ラジオ1台を7円50銭で購入して帰ったのである。

 当時、外国ではラジオはすでに実用の段階にはいっており、報道・娯楽の機関として不可欠の地位を占めていた。しかし、日本ではこのラジオがなかったので、アメリカ製ラジオは貴重なものであった。事業は常に新しいアイデアで他より一歩先にと新分野を開拓していかなければ、到底成功は望めないと思い、この鉱石ラジオの開発に没頭する。そしてついに成功、爆発的な売れ行きとなり再起の企業基盤が固まった。この後、テレビ、電卓、太陽電池などつぎつぎと新製品を開発して大企業に発展させたのだった。
彼のすさまじい闘魂と開発意欲に思わず頭が下がってしまいます。事業と家庭の崩壊にもかかわらず、この逆境をチャンスとしてモノにする開発意欲と闘魂でねじ伏せてしまいました。 
新着の鉱石ラジオを「運命は私に幸いした」と捉えた昔の創業者の粘りと根性に脱帽してしまいます。


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