追いつめられた気づき

俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。昭和の芸能界を代表する国民的名優であり、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌手・エッセイストなど幅広い分野で活躍した。1991年(平成3年)に大衆芸能分野で初の文化勲章を受章。

 森繁は1913年、大阪府で生まれ、名門の裕福な家庭で育ったが、家系は複雑だった。父・菅沼達吉は日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈(現関西電力)常務を歴任した有名実業家であり、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。彼は小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となった。
 彼は旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、1934年(昭和10年)に早稲田大学商学部へ進学するが、裕福であったので学業などどこ吹く風で遊びに耽る。ちょうど新宿にムーランルージュができた頃で、彼は頻繁に通い、神楽坂、渋谷、池袋にも出入りするようになる。その時の池袋の芸者の花代はいくら、渋谷はいくら、神楽坂はいくらと1泊朝食・朝風呂付き代金まで細かく「履歴書」に書いてくれている。この代金はツケがきくのを幸いに花柳界の芸にも明るくなり、三味線でザレ唄をうたったり、流しの新内につつみ銭を投げて人気どりなども質屋通いでしたという。
部活では拳闘部に無理やり入れさせられ、毎日顔といわず腹も胸もメッタ打ちされて鼻血を出し、最後に「ありがとうございました」と言わされるバカらしさに退部する。そこで演劇研究部(略称:劇研)に入部しこの劇研の誘致ポスターを東京女子大に貼ると、後に妻となる女性が入会してくれる。彼も彼女も学生だったので、結婚しても世間体を気にして妹ということで、大久保の自宅に引き取って兄弟3人と一緒に暮らすことになる。
 しかし、彼は大学3年に必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退する。東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積み生活を過した。そして、1938年(昭和13年)軍隊に召集されるが、耳の大手術をした後だったため即日免除となった。
そこで26歳の時、NHKアナウンサーに応募・合格し満州国へ赴任となったが、朝鮮をすぎ、鴨緑江を渡ると大地の広さに日本社会との違いをはっきりと認識した。知人もいない、助けを求める人もいない。自分以外に妻も子供も頼るものがいないのだとハッキリ解り、彼はいままでの「ぐうたら」と決別する一大決意する。その3つを次のように書いている。

1.何でもいいから文句をいわず人の2倍から3倍働いてやろう。
2.今からでも遅くない、出来るだけ勉強して、無為に流れた青春の日々を取り戻そう。
3.一切の過去を、良かれ悪しかれひっくるめて忘却の淵に捨て去ろう。
親がえらかろうが、先祖がどうだろうが、俺の血の中にこそ遺産はあっても、俺が良くなるものもわるくなるのも、この地ではこの自分の力しかない。

大悟一番、この気づきが彼の転機となる。この満州で努力した結果、次第に周囲から実力を認められていく。そして彼が得た教訓は、

人生には、二度や三度はチャンスがくるのだ。意味なく生きている筈はない、人間が人間の為に造った社会なのだから、いたずらにあせっても、運は向こうから来るもので、ただ眼をふさいでいては見そこなうことがあるということだ。

彼は帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中で喜劇性を光らせることができるユニークな存在として、後進の俳優たちにも大きな影響を与えた。
また、『夫婦善哉』『警察日記』等の作品での演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたて、演劇界のあこがれの存在となったのだった。