西式健康法

 伊藤は近江商人の精神を引き継いだ人として名高く、関西系商社伊藤忠、丸紅を育て、事業経営の傍らカナモジ運動の推進や甲南学園理事長も務めた人物である。
 彼は明治19年(1886)滋賀県生まれで、伊藤忠商事創始者・忠兵衛の子である。県立滋賀商業学校を卒業し、明治36年(1903)父親の死去に伴い17歳で家督を相続し2代目を襲名する。同37年(1904)関東織物問屋(丸紅飯田)入り、42年(1909)アメリカに留学し、大正7年(1918)伊藤忠商店・伊藤忠商事社長となる。
 伊藤はまわりから健康そのもののように見られていたが、少年時代は腺病質であり、ジフテリアを数度、チフスや肺病にも罹っている。
 肺病は水を被れば治るという記事を読み、これを徹底実行して治したが、年長になっても風邪にかかりやすく、耳、鼻、咽喉科の専門患者だった。何かというと、すぐに耳、鼻、のどを痛めていた。
 また、死を宣告されて耳の手術を受けたこともあるが、これは1年休養して治した。しかし、15年後に再発して手術を受けるが、どうしても治らず半年間入院するという病体質だった。
 そこで友人から西式健康法の療法を聞き、西勝造先生に相談すると、「必ず治る、耳も聞こえるようになる」と断言された。そこで彼は、この託宣に一命を捧げようと決心して実行した、と次のように語っている。
「水浴はお手のものだし、絶食から板に寝、硬い枕に代えるくらいの作法をやったら半月でうみも止まり、よく聞こえるようになった。そして冬は三枚のシャツ、二枚のズボン下をはいたのが、ついに無シャツ、無パンツ、無外とう、無手袋生活と変わった。以来二十五年間、年二度尿の検査を願うが、一切医者との縁を切った。(中略)。
昨今の食事は、朝は水、昼はそば、夕食に多量の栄養物をとるが、米は一杯である。・・・しかしいまだに果実と菓子は人の数倍をやる。(中略)。
酒は半合を越えず、百薬の長として善用している」(『私の履歴書』経済人一巻 387p)
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 恵まれた生活環境にある現代人は、体を動かすことも、ひもじい思いや寒さに震えてすごすこともありません。
 西式健康法は、人間が本来もっている機能を復活させるのに役立つ健康法だといわれています。その理由は、自分の体を空腹や耐寒など自然環境に順応させることが「筋肉ならびに血液やその他の体液の温度を調整すべき機械的作用(機能)がいつも眠ってばかりいる」のを起こすことになるからだといいます。