私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

行動から道が開ける

ダイキン工業会長。「人を基軸に置いた経営」を提唱している経営者。
1935年、京都府生まれ。同志社大学経済学部卒業後、大阪金属工業(のちのダイキン工業)に入社。人事部長、常務、専務などを経て社長・会長。そのほか、関西電力、オムロン、コニカミノルタホールディングス、阪急阪神ホールディングスなどの取締役を務めた。

井上は太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941)、国民学校(小学校)に入学したが、待っていたのはイジメだった。彼の父親はアメリカ帰りの京大教授であり、しかも本人は髪が柔らかく、茶色でおまけに色白だった。太平洋戦争の影響で学校ではすっかり敵役にまわり、ガキ大将を中心に10人ぐらいが「異人さん」「外国のスパイ」などとののしられた。みんなでよってたかってイジメられ、よく小競り合いになった。これが高じて、一時は夜も眠れないくらい学校に行くのが嫌になる。が、弱り果てていたある晩、ふと「あいつは何を望んでいるのだろう」と思いつき、犬を連れてガキ大将の家を訪ねてみた。他愛ない話だったが、一対一で話してみると意外なほど気弱な男で、翌日から彼への態度がコロッと変わったという。この時の教訓を彼は次のように述べている。

 わたしにとって小学生のときに受けたいじめほどつらい経験はない。でも、それに耐え、乗り越えたら、どんな苦難にも立ち向かえる自信が芽生えた。自分の欠点にも気づかされ、友達の悩みにも耳を傾けるようになった。人を恐れ、避けるのではなく、人と人との間でたくましく生きる精神を培ったと思う。

 彼はこのイジメの試練を克服する「人を恐れ、避けるのではなく、人と人との間でたくましく生きる精神を培った」自信が大きな財産となって社会に出ている。昭和32年(1957)に同志社大学を卒業すると、不況で就職難の中、父親の勧めもあり大阪金属工業(現ダイキン工業)に1957年に入社する。だが、入社当時のこの会社は戦後まもなく3度も人員整理をし、「ボロキン」と冷やかされていた。しかし今は、彼がこの会社を総合空調・冷凍事業で世界中に快適な空気環境を提供し続ける連結子会社210以上、従業員6700名のグローバル・ナンバーワン企業に成長させている。

 イジメはどの時代、どの民族にも存在する。金持ちか貧乏か、体のハンディか、社会的な身分か、民族かなど自分の優位性を誇り、相手をさげすむ習性は人間のサガ(性)とも言うべきだろう。この「履歴書」でも多くの人が幼い時にイジメに遭っている。それを両親の助言や本人の努力で克服しているが、その克服の一番良い方法は、本人の得意分野で優秀性を他人に認めさせることである。外国とくに米国では、スポーツであれ勉強であれ、何か一つ優れているモノを持つとそれを高く評価する風習がある。これは日本でも言えることで「何か一つ得意分野を持とう」となる。
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うつ病の対処:
 この「履歴書」に登場する人物で「うつ病」経験の記述者はないが、最近ではセクハラ、パワハラ、長時間労働などストレスの多い生活で、心身の健康を損ないうつ病になる人が増えている。IT導入による人員減や多様化する業務など職場環境が大きく変化する中、心身に不調の兆しがあれば早い段階で医療や労務問題の専門家に相談して欲しいものです。


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