自分の才能を信じてくれた人のために

放送作家、詩人、作詞家、小説家。作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてもかかわった。
阿久は1937年、兵庫県に生まれ、幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、淡路島で過ごす。1959年(昭和34年)に明治大学を卒業し、広告代理店・宣弘社へ入社する。彼は企画課に配属され、ラジオやテレビの番組の企画書、プレゼンテーション用のCMソングのほか、コピーも絵コンテも担当していた。これは1週間に一本というスピードで、ありとあらゆる番組の企画書をノルマのように書いていた。
1964年に結婚すると生活に対する責任と将来に対する職業を本気で考えるようになった。そのときに「ラジオの台本を書いてみませんか」との誘いを受け、応諾した。当然、仕事は掛け持ちになる。そこで最初は放送作家のタマゴとしてコント作りに励むが、このとき阿久悠のペンネームが誕生した。広告代理店・宣弘社の社員だったので、本名を名乗るわけにいかなかったのである。

広告代理店の社員である深田公之と放送作家阿久悠の過酷な二重生活のスケジュールは次のとおり。
1.横浜郊外の自宅を早朝に出て通勤電車内で、新聞記事からコントになりそうなネタを考え出す。
2.有楽町で降りて、テレビホールに行き、コントの背景とその衣装と持ち道具の準備を阿久悠として頼み、
3.それから大急ぎで宣弘社に出社し、タイムレコーダーを押す。そこで社員として打合せを行う。
4.そして会社を抜け出し11:00までに有楽町のテレビホールに行き、12:30まで自分の風刺コントの出来の善し悪しを点検する。
5.これが終われば、宣弘社に戻り、夕方まで完璧な企画課の社員であろうと企画書を書き続けた。
6.退社後は、阿久悠となり、テレビ収録に立ち会ったり、仲間たちと付き合ったりして深夜帰宅となる。
7.そこからまた、コントなりトークの台本なりをほぼ明け方近くまで書く。
このような生活を1日24時間休みなく2年間働き続けたのでした。

妻の雄子は何も言わなかったが、およそ人間離れのした生活に危機感を覚えていたに違いない。ぼくはぼくで、ぼくの才能を本気で信じた最初の人間である妻を裏切らないためには、大物になるしかないという思いが強く、そのための準備として小物の仕事をしつづけたのである。睡眠時間は3時間平均であった。

このときの心境をこのように書いているが、この時のがんばりと蓄積があったので、幅広いジャンルの仕事を成し遂げたのだった。人間は「自分の才能を信じてくれる人」がおれば、その期待に応えようと驚異的な働きができるものだと感じたものでした。