自分に自信を持つ

 1918年、新潟県生まれ。高等小学校を卒業後、上京し中央工学校を卒業。1943年に田中土建工業を設立。1947年に衆議院議員。郵政相、蔵相、通産相などを歴任し、1972年に首相。日中国交正常化を実現。金脈問題が摘発されて1974年退陣。1976年、ロッキード事件で逮捕され、一審で懲役4年の実刑判決を受け、上告中に死去。

田中は自民党最大派閥を率い巧みな官僚操縦術を見せ、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。大正生まれとして初の内閣総理大臣となり、在任中には日中国交正常化や第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。また、高等教育を受けていない学歴でありながら、首相にまで上り詰めた当時は「今太閤」とも呼ばれた。明晰な頭脳とやるといったら徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた。
彼は体が大きく勉強も良く出来たので、小学校高学年でも級長をさせられていた。しかし、吃(ども)る癖を持っていたのでいつも引け目を感じていた。あるとき習字の時間に悪友が悪事を働き、責任を彼に被せたため、先生が一方的に彼を叱った。彼は立って弁明しようとしたが、吃るためうまく言えない。顔が真っ赤になるばかりで自分にいらだった。その無念さを晴らすため、すりおろした墨と硯を力いっぱい床に投げつけたのでした。そして次のように語っている。

 ドモリとは奇妙なものだ。寝言や歌を歌うとき、妹や目下の人と話すときはドモらないが、目上の人と話すときは不思議とドモるのである。せきこむととますますひどい。いくら矯正法の本を読んでもだめなもので、自分はドモリでないと言いきかせ、自信を持つことが大切なのだ。大いに放歌高吟すべきだと悟ったので、山の奥へ行って大声を出す練習をした。

この習字事件がドモリを治す端緒となった。その年の学芸会で「弁慶安宅の関」の弁慶役を先生に強引に頼み込んで認めてもらう。そして「自分はドモリでないと言いきかせ」自ら課した特訓で成果を出し、みごと勧進帳のくだりも読み上げ満場の拍手喝采を浴びたのでした。この成功の裏には「自分はドモリでないと言いきかせ」、自分に自信を持たせた特訓でした。ここが彼のリーダーたるプライドと思えます。
このときの弁慶役の成功が、どれほど彼にドモリ克服に自信を与えてくれたか計り知れないという。彼の弁舌は爽やかで聴衆を湧かせ人気を得ていたが、これもこのときの自信が原点のように思える。

また余談ですが、田中は弁舌の他に文章もうかまった。(「私の履歴書」の執筆は本人が完全原稿を仕上げた数少ない一人と日経新聞の当時の刀根浩一郎文化部長が証言している。:「私の履歴書」経済人別巻“取材記者覚え書”)
彼は建築作業で初めての賃金を得る前に、懸賞小説に応募して5円の賞金を稼いだのが「自分で稼いだ第1号だ」と書いている。新潮社が雑誌『日の出』を創刊(1932年)するに当たって懸賞小説を募集していたおり、田中は「30年一日のごとし」という小説を応募したところ、入賞し賞金をもらったのだった。

 「私の履歴書」では、幼年期から青年期、戦後の再出発の日(昭和22年4月26日)の28歳で代議士当選までを書いているが、その中に女性が3人登場する。その1人は柏崎町役場の電話受付嬢、2人目は長岡の芸者、3人目は新妻となる間借りした事務所の娘さんである。それぞれに対し誠実で人情味のある対応を書いているが、その興味ある新妻への誓いは次のように表現している。

3月3日、桃の節句の日に二人は一緒になった。戦争が苛烈を加えてきたころなので、はでな結婚式も披露の宴もできず、二人がその事実を確かめ合うだけで良かった。ものもいわず、虫も殺さぬ顔の妻にその夜3つの誓いをさせられた。その一つは出ていけといわぬこと、その二は足げにしないこと、そしてその三は将来私が二重橋を渡る日があったら彼女を同伴すること、以上である。もちろんそれ以外については『どんなことにも耐えます』と結んだのである。私はこの三つの誓いを守って、今年で25年を迎えるのである。今考えてみると、そのときから彼女の方が私より一枚上であったようだ。

 これには後日談がある。中川順日経元編集局長が自著『秘史』(講談社)の中で紹介したものだ。小林秀雄が「政治家にあんな文章が書けるわけがない。しかし、あの文章は、本人ではないと書けない文章だ」と褒めていると田中に伝えた。文化勲章の受賞者であり、天下の評論家の小林秀雄から褒められた田中は喜び、後日単行本として出す彼の「私の履歴書」の序文をお願いしたところ、丁重に断られたそうだ。
 しかし、彼の文才を天下の評論家も認めたことになる。そして、上記の3つの誓約は、彼のその後の多くの女性関係の噂を考えると「新妻との約束は果たしている」とも思え、とても微笑ましく感じたのでした。