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日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的生みの親。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる。
竹鶴は1984年、広島県に生まれ、大阪高等工業学校(現大阪大学)の卒業を春に控えた1916年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていたので、当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造を訪ねた。それは卒業を待たずに押しかけ入社の形だった。摂津酒造の阿部喜兵衛社長は、彼の仕事ぶりを見て、将来性を見込み「ウイスキーの技術習得のための英国留学」を取り計らってくれた。
そして、英国では、グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士らの懇切丁寧な理論と実地指導を受けることができた。
しかし、4年間の技術習得を終え帰国すると日本には不況のあらしが吹いており、摂津酒造も経営難に落ちっていた。彼が望む本格モルトウイスキー醸造計画は経営会議で否決され、辞表を提出する。そして浪人生活をしばらく送っていると1929年、鳥井信治郎に「ウィスキーづくりを任せる」と請われ、寿屋(現在のサントリー)山崎蒸溜所初代所長として、日本初の本格スコッチ・ウイスキー製造を指揮することになる。
10年後、より本格的なスコッチの製造を指向して大日本果汁(現在のニッカウヰスキー)を興した。このときも彼の念願だったカフェ・グレーンの醸造機器を日本で初めて備えるのに朝日麦酒・山本為三郎社長の積極的な援助があったという。このようにウィスキーづくりの環境が整い、彼が専心努力した結果、あくまでも品質にこだわり続けた専門技術者として知られるようになった。彼は後年、お世話になった方々につぎのように感謝の念を述べている。
こうして考えてみると、私はウィスキーづくりに精進できたのはみなさんの協力が運命のとびらを次々とあけていって、おのずと私をこの道一本に導いてくれたといっても過言ではないのである。
実際には本人の努力と周囲の協力が相まって運命の扉が開くと思われるが、彼の人柄と「志の高さ」が周りをしてできるだけ協力してやろうという気持ちにさせたのだろう。私はこれを読んでいて、彼はほんとうに幸せな人だなぁと思えた。
余談ですが、彼がウィスキーの芳香を人一倍きき分けられるのは、8歳のとき、二階の階段から転がり落ちて鼻を強打し失神した。そのとき一面が血だらけになり七針も縫う重傷だったが、それを機会に鼻の嗅覚が敏感になったそうだから、これも怪我の功名で運命に幸いしたことになっているのです。