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皇族の大本営参謀として停戦命令を

東京府生まれ。学習院、陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て1938年、陸軍大学卒業。陸軍少将竹田宮恒久王の第1王子で、母は明治天皇の第6皇女常宮昌子内親王、昭和天皇の従弟にあたる。

 竹田は戦争末期の1945年(昭和20)7月に、関東軍参謀から東京の第一総軍参謀に転任を命じられていた。彼の後任は新進気鋭の瀬島龍三参謀(のちに伊藤忠商事・会長)であった。
 8月6日、広島に原爆投下、その3日後には長崎にも投下された。こうした情勢下で、終戦の色が漂い始め、陸軍の統帥部では当然ながら深刻な議論が交わされた。皇族の間でも終戦につながる話し合いが行われてもいた。竹田は皇族の立場から次のように証言している。

「そんなある日、天皇陛下の思し召しにより、男子の皇族全員が吹上御苑内の地下防空壕に集まった。陛下は緊張されたご様子で、『これ以上戦争を続けることは国民をただ苦しませるだけである。ここで戦争を終わらせたい。今後は日本の再建のために尽くしてもらいたい』という趣旨のご決意をもらされた。われわれは『陛下のご英断に従い、国体維持に全力を尽くします』という意味のお誓いをした。これは終戦を決定された御前会議の前日(13日:筆者注)であったかと記憶している。(中略)
8月15日の玉音放送は市谷台上の第一総軍司令部で拝聴した。翌日、陛下の思し召しで仮宮殿に参内すると、浅香、東久邇、閑院の各宮といっしょになった。『何のお召しか?』と話し合っていたら、東久邇以外の三人がいっしょに御前に呼ばれた。
 陛下は『ご苦労だが、すぐに各方面の派遣軍へ行って停戦を伝えてもらいたい。いままで戦ってきた軍隊が急にホコを収めるのはむずかしいことだろうと思うが、これ以上不幸な戦争が続かないように、自分(陛下)の気持ちを第一線の将兵によく伝えてもらいたい』とおっしゃられた。浅香宮は支那派遣軍、閑院宮は南方派遣軍、そして私は関東軍に行くことになった。東久邇宮に組閣の大命が下ったのはこのすぐあとだった。
 我々の飛行機はすでに用意されており、翌17日にたつこととなった。しかし満州(現中国東北)ではソ連軍が侵攻しつつあるときだし、いつ米軍が本土に進駐してくるかもわからない。私は再び生きて帰れないことを覚悟して、その夜を徹して身辺の整理を行った。
こうして天皇陛下から下命された鎮撫使として関東軍へ終戦の聖旨を伝えに行った」

 この記述によると、8月15日の玉音放送の翌日16日に、4人の皇室が天皇陛下に集められている。そして、海外の主要前線基地に行き、陛下からの停戦命令を伝え、「不幸な戦争が続かないよう鎮撫せよ」との司令は、用意周到で戦争の現場事情を知悉した言動であったと感動した。この皇室4名の活用はお見事だと思わず唸ってしまった。


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