私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

片腕をもがれる感じ

中村歌右衛門(6代目・歌舞伎役者1917-2001) 掲載:1981年3月2日-3月31日
戦後を代表する歌舞伎役者。生涯を通じて歌舞伎に専念し、戦後の女形の最高峰と呼ばれた。1917年東京生まれ。五代目中村歌右衛門の次男として生まれる。幼少時に母親の実家、河村家に養子入りしたため、本名は河村藤雄となる。父・五代目歌右衛門は歌舞伎座幹部技芸委員長として当時の劇界を牽引する大役者であり、御曹司として何不自由ない幼年時代を過ごした。この頃、先天性の左足脱臼が悪化して数年寝込み、大手術を行ってやっと歩けるようになったといわれる。そのため、歌右衛門の左足の動きは終世ぎこちなかった。

中村は昭和14年(1939)、父親の舞踊中村流の名取で市会議員の娘・平野つる子と結婚する。当時、彼はその輝くような美貌が有名で、若手のなかでは三代目尾上菊之助(後の七代目尾上梅幸)と並び称されたが、それだけではなかった。吉右衛門が得意とする義太夫狂言に多く出ることで、演目に対する解釈を深め、役柄をしっかりと把握、古典的な様式美に近代的な心理描写を加えた表現手法を着々と身につけていった。そして1951年(昭和26年)に名優父の名跡・六代目中村歌右衛門を襲名したのでした。
彼が順調に名声を上げて始めた4年後、昭和30年(1955)頃から妻・つる子の体力が衰え、徐々に衰退して昭和32年(1957)7月に亡くなった。18年間の短い結婚生活だった。彼は「私がいうのもおかしいことですが」とことわって、次のように追悼している。

つる子は性質は温和で、家庭のことや芝居のことなど何もわきまえていながら出しゃばらず、素直で誠実なところがあり、人に好かれるタイプでした。その誠実さがわざわいしたと申しましょうか。戦争中の食糧難、疎開、終戦後の混乱の時代を通じて何の不服もいわず無理をして家事を切り回していました。そういう心身ともに重なる苦労がつもりつもって衰えて行ったわけです。それを思うと不憫でなりません。

当時、彼は新宿第一劇場で夜の部「四谷怪談」に出ていたが、夕刻、妻の容態が急変したことを知らされ、急遽自宅に駆けつけたが、すでにこと切れていた。涙ながらに妻の死に顔に化粧をしてやり、劇場にとって返したという。その時のつらい心情を次のように吐露している。

役者は、舞台は戦場だから出演中は肉親の死に目にも会えないことはよく承知していたものの、家の要であるつる子に死なれてみると、片腕をもがれたような気がいたしました。

松竹の永山武臣会長がこの「履歴書」で、「役者の奥様方は、主人の舞台を気遣い、客やひいき筋の応対をし、時にはせりふの手伝いまでする。歌舞伎は奥様方の力で支えられている」と書いているが彼女の場合は家事の他、子どもの教育や弟子たちの心配りも日常必要でしたから、彼が「片腕をもがれたような気」がしたというこの箇所を、私(吉田)は深く理解し同情することができた。
この夜、松竹の大谷社長が弔問に来られ、自分も長男を中禅寺湖で亡くし、仕事も何も捨ててしまいたいと思ったが、彼の父(5代目歌右衛門)の説得で仕事に立ち戻ることができたと慰められた。この慰めと激励が彼に「嘆き悲しむばかりは妻は望まない。立派な役者になることが妻への償い」と悟らせた。そしていっそう彼を舞台一途に努めさせこととなった。それは妻の死後の寂しさを紛らわすためでもありました。そしてこれが戦後女形の最高峰といわれる存在になったのでした。


Posted

in

by

Tags: