私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

父母の役割分担

 進藤は明治29年(1896)山梨県生まれで、大正12年(1923)九州大学を卒業し、東邦電力に入社する。同20年(1945)復興院業務局長となり、27年(1952)電源開発副総裁として転出する。そして37年(1962)に総裁となる。
進藤の家は代々地主として農業を営んでいたが、父親の時代になって一時織物業や酒造業、銀行にも関係し、村長としても活躍していた。
 第一子長男として生まれた進藤は、両親に寵愛された。そのためか、幼児の頃は大変ないたずら坊主で、あるとき隣家の軒下に積んである枯れ草に放火して大騒ぎになった。
 仕置きのため土蔵に閉じ込められると、うず高く積まれた米俵の上から放尿するなど、やんちゃ振りを発揮した。このほかにも数々の悪業を行なったが、そのつど両親はひそかに尻拭いをしてくれていたという。

「父は内に厳しさを持っていたが、きわめて温厚な人であった。父に直接しかられた記憶はないが、早起き、冷水浴、読書癖など、父の一挙一動に影響されたことはきわめて大きい。母には直接どなられた経験が多く、陳謝するまで許されなかった。三十六計で逃げ出したり、声をかぎりに泣き叫んでも決して許してくれなかったが、病気やけがの際の母の心づかいには、いつも胸を打たれたことである」(「日本経済新聞」1965.7.10)
          *          *
 進藤は、自分を厳しく律した父親の、日常生活から早起き、冷水浴、読書癖などを見習い、自分の生活の習性を身に着けました。厳しくも優しかった母親からは、人の接し方を学んだのではないでしょうか。
 両親が子供の教育に対し、役割分担をわきまえていたのでしょう。


Posted

in

by

Tags:

Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です