私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

父から学ぶ

 近藤は大正9年(1920)神奈川県生まれで、昭和17年(1942)東京大学を卒業、大蔵省に入省するが、同17年海軍短期現役組として入隊。
 マレー半島に配属されたが上官ににらまれ、困難な物資調達を命ぜられた。サイゴン(現:ホーチミン)からバンコクまでの直線750キロを、単独で地図を持たずに5日間、歩いて任務を果たした強固な精神力の持ち主だった。
 戦後、現地に抑留されるが、昭和22年(1947)大蔵省に復帰する。同47年(1972)国税庁長官となるが、50年(1975)博報堂の社長となる。
近藤は7歳のとき、近所に住む悪童から恐喝された。父親に相談すると「逃げずに頭突きしろ」と教えられ、実行すると後難はまぬがれるようになった。しかし、今後のこともあるので、父親は彼に剣道を習わせたが、これが精神と肉体の修練に役立ったという。
父親は一高、東京大を出た外科医だった。小田原に移ったとき、近藤外科医院に女子修養のための「塾」をつくった。そのとき10人ほどの塾生が集まった。医院の2階の寮に住み込む彼女たちは、全員看護婦である。
「看護婦は修養を積んでから患者に接すべし」という考えを、父親は実践した。父親が実直に自分の決めた日常行動を実践している姿を身近に見て、大きな感化を受けたと語っている。
「父は午前五時前後に起きて外来患者用の便所を掃除する。外科手術で出た汚物の焼却も他人に任せない。多少の熱があろうとも決して怠ることがなかった。
 それが終わると朝食まで塾生を前に講義をする。茶道、日本の古典文学、詩歌、漢籍などを語る父の話はわかりやすく、塾生に交じって座る私や姉たちも、詩人や歌人になりきった父の名調子に、身を乗り出して聴き入った。
 昼間に何十人もの患者を診て夕食が済んでから、また講義をすることもあった。私は学校の授業より、多くを父から学んだかもしれない」(「日本経済新聞」2009.4.28)
          *          *
 近藤は教養ある父親が看護師寮の寮長で教育者でもあったため、その模範となる生活態度や講義を身近に受けることができたのです。
 近藤の教養深さと自律心は父親からの影響が大きいといえるでしょう。「私の履歴書」ではほかに、父親が教育者で直接息子や子弟に教育している人物として伊藤忠の越後正一がいます。


Posted

in

by

Tags:

Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です