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伊藤の母親は裕福な乾物商の娘として生まれ、稽古事にも通う何不自由のない生活だったが、父親を若くして亡くし、日露戦争後は家業も没落した。
結婚したものの夫に先立たれ、伊藤の父親となる男と再婚した。父親は道楽者で商売は不熱心だったが、6歳上の姉さん女房の母親がよく気がつき、字もうまく、交渉ごともてきぱきとまとめたので、周囲からの評判もよかった。
母親は商家の生まれで商売が好きだったことや、没落した実家を立て直して親戚を見返してやりたい意地もあったのだろう。
とにかく商売一筋の人で、戦前の個人商店のことだから、盆も正月もない。商人が大みそかまで働くのは当たり前だった。おせち料理などが得意だった母親は、使用人を休ませてから夜なべして煮物などを作り、元日の朝一番に自分で店を開けて年始のお客さんを迎えたという。
伊藤にとって、父親が反面教師だったとすれば、母親は文字通り商人としての鑑だった。「母親の商売への言動そのものが血肉となって生きている」と、伊藤は次のように母について語っている。
「仕入れを一つ間違えば、支払いができなくなり、食べられなくなる。絶対に間違えられないから、一箱、一袋の商品を売って儲けは箱代か袋代という薄利の確実な商売に徹し、何よりお客様を大切にした。私が母に見たものは、すさまじい商人の業である」(『私の履歴書』経済人三十八巻 163p)
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伊藤は自分の恩人として、母親と異父兄の譲を挙げています。
二人から「お客様を大切に」「暖かい人間味と思いやり」など、お客様と仕事への真摯さを学びました。
そこから「お客様は来てくださらないもの、お取引先は売ってくださらないもの、銀行は貸してくださらないもの。だから、一番大切なのは信用であり、信用の担保はお金や物でなく人間としての誠実さ、真面目さ、真摯さである」と気づいたといいます。
この悟りから「売れただけ仕入れて販売する」という、彼一流の企業原則のキャッシュフロー経営が出発しています。