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捕虜として強制労働

 本州製紙社長(現王子製紙)のち会長。包装界に対する多年の功績を記念して「木下賞」(3部門)が創設されている。

木下は明治22年(1889)、愛知県に生まれ、大正5年(1916)東大を卒業し、王子製紙に入社する。そして9年(1920)、樺太に赴任して終戦まで一貫してパルプ生産に従事する。そして戦後シベリアに抑留された。それは第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によって主にシベリアに労働力として移送隔離されが、そこに組み入れられたものであった。
この長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を受けた。また、零下20度以上にもなる厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。
 彼はそのとき56歳であったが、敗戦にともない樺太の日本人絹パルプ会社社長から一雑役夫としてシベリアに抑留された。極寒地方に抑留4年半、屈強な同邦人がいやがる死体運搬、糞尿処理などの重労働に従事させられたのち、帰国が許された。
 帰国約束を何度も反古にされ絶望を幾度となく経験したのち、やっと昭和25年4月にナホトカから、日本の帰還船明優丸に乗ったときは、嘘か本当か、うれしいのか悲しいのかもわからないただ茫然とした気持ちだったようだ。
 舞鶴港に着いて会社関係の人や家族なども面会に来てくれた。やっと会えた。ありがたいと思ったが、そのときの情景を次のように書いている。

「妻の顔は、それとすぐわかったが、あとの3人は会社の人だと思って、私は次男に『来ていただいてどうもありがとうございます』と頭を下げてお礼を言った。『おとうさん僕ですよ。健二ですよ』とその男は言った。よく見るとなるほど次男だった。別れるとき中学生だった次男は、4年半の間にすっかりおとなびて背広姿の青年になっていた。
 妻は、前より少しやせて見えた。私は妻に何かを言おうとしたが、4年半も別れていると、昔のように親しいことばが出ない。おかしな話だが、私は妻に向って『どうも長い間、ありがとうございました』と言って頭を下げた。妻はただ涙するばかりであった」

 この箇所を読んだとき、私は涙が溢れ出てしまった。彼は奥様に「長い間、心配かけてすまなかった。子供たちを立派に大きく育ててくれてありがとう。申し訳なかった。本当にありがとう、ありがとう」と手を取って感謝をしたかったにちがいない。
 しかし、長年の奴隷的な強制労働で会話も少なかったため、感情を素直に表現できなかっただろうと思うと、よけい彼が気の毒に思えたのだった。
捕虜としての強制労働は運命として素直に受け入れざるを得ない。しかし何としても「帰国して生きたい」という強い願望をもっていたので忍耐することができた。家族や会社への帰属意識が彼を強くさせたと思えます。
 この後、彼は苫小牧製紙副社長として復帰し、昭和31~44年、本州製紙社長(現王子製紙)のち会長となり、戦後の製紙産業発展に尽力したため、「木下賞」(3部門)が創設された。


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