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メキシコ五輪のマラソンで銀メダリスト。走った距離は、地球を4周半だという。
福岡県生まれ。高校卒業後、八幡製鉄(現新日鉄住金)に入社。1960年代から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。
君原は、東京オリンピックでマラソン3位となった円谷幸吉とは同学年だったため、親しくしていた。円谷とは東京オリンピック代表として半年間ともに練習を重ねたことから無二の親友ともなっていたが、8位になったその晩は宿舎で床に就いて、円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。
東京五輪終了後福岡に戻ってからの彼は、八幡製鐵陸上部の退部届を提出するほどに落ち込んでいたが、コーチの高橋がその退部届を保留扱いのままにしていた。東京五輪マラソンの失敗はしばらく尾を引きなかなか立ち直れなかったが、彼自身初めて女性からのファンレターが届いたのをきっかけに交流を深め、高橋コーチの勧めもあって女性と結婚する。
彼は結婚で癒され次第に練習に力が入るようになり復帰できた。しかし、円谷は東京五輪後に結婚目前までいっていながら、自衛隊の幹部から「競技に差し障りがある」と反対され破談になった。心の平静を得た彼と、悩みを打ち明ける相手のいなかった円谷との相違がここに生じたのだった。
1968年メキシコオリンピック前に、円谷がメダル獲得期待の重圧に負け自殺したのにショックを受ける。「そこまで自分を追い詰める必要はない」と助言できなかったことを、深く悔いていた。このことがトラウマとなり、以後のレースに影響したが、銀メダルを取ったメキシコ五輪では、最後のゴール前で後ろを振り向き、すぐ後ろにライアンがいるのを知る。それで彼はさらにスパートをかけ、銀メダルを獲得できた。
普段はスピードを落としたくないので後ろを振り向かない彼が、「天国から円谷さんがメッセージを送ってくれたとしか思えない」と述懐していた。そして
8位に敗れた東京五輪と銀メダルを獲得したメキシコでは、私にどんな変化があったのだろうか。パワーもスピードもスタミナも東京のほうが上だったと思う。練習量も東京五輪のほうが多かった。しかし、自分の力を出し切れる選手ではなかった。(中略)
東京五輪後に私は妻帯者となっていた。メキシコでメダルを取れた要因はそこにあると思っている。結婚し、癒され、精神的に落ち着いたのが大きかった。その結果、私の競技者としての総合力が上がったのだ。
彼は東京五輪マラソンの失敗で走る意欲を失い、スランプに陥ったが、結婚することで気持ちがほぐれ、走る意欲を回復することができた。心の平静を得た彼と悩みを打ち明ける相手のいなかった円谷との違いを指摘し、自分を追い込む「競技者は悩みを打ち明ける人の支えなくしては生きていけない」と心の支えの必要性を告白している。スランプ克服には家族や肉親などの「心の支え」になる人も必要なのです。