私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

強い同志の絆

映画監督、脚本家。日本の独立プロ映画の先駆者であった。近代映画協会会長。
新藤は1912年、広島生まれで、1934年(昭和9年)22歳の時に新興キネマに入る。彼の志望していた映画助監督への道は狭く、体が小さいため照明からも敬遠され、現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートする。撮影所の便所で落とし紙にされていたシナリオを発見し、初めて映画がシナリオから全て出来ているものと知り、シナリオの勉強を始めた。
1951年(昭和26年)、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。このシナリオはスクリプターで内妻の久慈孝子のレクイエムで書いたものだった。彼はこれを「自分で監督をやらなければ、自分の戦後が始まらない」と思っていた。主演は宝塚出身の大映人気スター“百萬弗のゑくぼ”の乙羽信子で、乙羽がこの脚本を読んでどうしても妻の役をやりたいと願い出てきたこと、彼としては愛妻物語のモデルである内妻・孝子と乙羽がよく似ているから、との理由で決めたという。
 
乙羽さんとは「愛妻物語」で出会い、「原爆の子」で同志となり、男女の関係を結んだ。この時私には妻子があり、乙羽さんは一生日陰の人でいいから、と全身を投げ出してきた。私は善良な妻を裏切ることに苦しみながら、これを受けた。乙羽さんが最初の妻、久慈孝子にそっくりだったからだ。
(中略)
乙羽信子とは27年間男女の関係を続け、妻と離婚して、4年後その妻が亡くなり、その翌年結婚した。結婚生活は17年続いた。(中略)
仕事というものは一人ではできない。とくに集団創造である映画はそうだ。そして深く人間関係を結ばなければ思いは達せられない。そうしてふたりは仕事をした。そのために周囲の人を傷つけたことは確かである。わたしは言い訳はしない。自分を正当化したくない。

この「同志」という言葉の内容は、一本の映画は三千万円から五千万円で作られる。しかし、彼の独立プロの映画会社はそんな資金はない。やっと300万円を捻出して撮影に取り組む。この金額でやり遂げる基本原則は、「宿に泊まらない。民家を一軒借りて合宿をする。自動車は使わない、自転車で行動する、炊事・洗濯もスタッフ交代で取り組む。主演俳優、主演女優もギャラはこの予算の中だから出演料は少ない」であった。新しい映画創造に対する熱意と使命感がなければ長続きはしない。周りの多くの協力もあったが、この二人のコンビで、「原爆の子」「裸の島」「鬼婆」「午後の遺言状」など独立プロで海外でも高く評価された名作品を作り出した。お互い強い信頼関係がある同志の絆がないとできないものだった。二人の間は、晩年も「センセイ」「乙羽さん」と呼ぶ信頼する師弟であり夫婦の間柄だった。


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