私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

宮内庁・侍従として天皇擁護

東京府に入江為守子爵・貴族院議員の三男として生まれる。父・為守も侍従長であった。生家は歌道冷泉派の宗家・冷泉家の流れを汲む「歌の家」。1929年東京大学卒業。学習院の講師、教授を経て、1934年に宮内庁侍従、69年侍従長となる。侍従在任中の『入江相政日記』(朝日新聞社)は有名。

 入江は8月15日午前3時、天皇陛下が「終戦勅語」の録音を2度(2枚)され、吹上御所にお帰りなった後やっとベッドに入り、ウトウトした。そのとき宮城事件が起きた。これは1945年(昭和20)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件であった。
 日本の降伏を阻止しようと企図した将校たちは。近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。入江はこのときの緊迫した様子を次のように証言している。

「すぐにたたき起こされ、『大変なことになっているのに、なにをぼやぼや寝ているのか』と。私をたたき起こしたのは、徳川(侍従次長)、戸田(東宮侍従長)の両侍従。この吹上の御文庫は、すでに反乱軍によってすっかり取り囲まれており、電話線は、みんな切られてしまっていた。(中略)
 そこらにいる皇宮警察の人の協力で、鉄扉の桟(さん)をすっかりおろした。戦争以来、シャッターは、毎晩必ずおろしていた。鉄扉も閉めたが、上下二段の桟は、一つだけしかおろさなかった。戦争中は、爆風を防ぐための鉄扉なので、ひとつだけで十分だったのが、これから襲いかかろうとしている日本人の敵に対しては、閉めておかなくては。4年間の戦争中、一度もおろさなかったものだから、錆びついていて、どうにもならないが、皇宮警察の力持ちが、ぶらさがるようにして、すっかりおろしてくれた」

 反乱軍の大尉がやってきて武装解除を命令されたが、入江は「傍系の指図で解除するわけにはいかない」と拒否する。すると直後に一個小隊か一個中隊かが、押し寄せてくる予感がした。「これらの連中は陛下を擁して、本土決戦をしようとしている。陛下を奪われてはならない」と緊張感が走る。
 もし、撃ち合いになり皇宮警察官5人のすべてがやられ、この部屋にどっと迫って来た場合、「陛下はどこだ」と詰問されれば、永積侍従と2人で「さぁ、どこにいらっしゃるか」と、その辺のドアを開けてみたり、トイレを探したりの時間稼ぎをするしかないと腹をくくっていた。どんなに食い止めようとしても、力は及ばない。しかし、陛下のところに連れて行くわけにはいかないと。
 入江は恐怖に怯え、緊張した数時間が過ぎた。すると急にドアが開き、カーキ色の軍服が現れた。ドキッとしたが、よく見るとそれは田中静壹大将であった(町村金吾の「履歴書」参照)。そのとき、初めて「助かった」と思ったと書いている。


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