夢があれば

作曲家・歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。1993年、日本作曲家協会理事長。

船村は1932年栃木県生まれで、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科を卒業する。大学在学時に作詞家の高野公男と組み、作曲の活動を開始した。2歳年上の高野とともに、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。高野から「東京に出てきた人間はいつか故郷を思い出す。お前は栃木弁で作曲しろ。おれは茨城弁で詞を書く」と激励され、協力しあうことになる。
1953年、雑誌「平凡」のコンクール曲に応募したところ、一等になり「たそがれのあの人」がレコード化され、作曲家としてデビューする。しかし、キングレコードから次の作曲依頼が来てレコーディングする際、彼の若気の慢心から楽団員とトラブルを起こし、会社から出入り禁止措置となる。音楽の世に出る舞台を自ら閉ざしたため、仕方なく二人はピアノなど楽器を売り払い、「東京楽団」を結成し、バンドマンや歌手、役者を揃えて地方公演に行く。しかし、興行師に騙されたり、観客も不入りだったため、ギャラが払えず、やむなく解散。惨めな楽団結末となった。

高野はベレー帽まで質に入れ、私は父の形見の金時計を手放して宿代に充てた。一文無しになった二人は、それぞれの故郷に帰って金策するしか方法はない。

腹を括った彼は追いつめられギターを抱えて宴会や祭りを回る“楽隊屋”の仕事を、高野は米軍の劇場から払い下げられた舞台衣装などを売って歩く忍耐の仕事についた。こんな失意の時代だったが、お互い「いつか地方の時代が来る」の夢を信じて苦難に耐えた。
しばらくすると出入り禁止措置も解け、三橋美智也の「ご機嫌さんよ達者かね」を高野が作詞し、彼が作曲でレコード化された。これがヒットして二人の音楽界への道が開かれたのだった。二人の名前を不動のものにした本格的な作品は、1955年、春日八郎が歌った「別れの一本杉」で空前の大ヒットとなった。しかし、高野は翌年1956年に肺結核のため、26歳の若さで死去した。
彼は茫然自失だったが考え直し、高野と約束「いつか地方の時代が来る」の夢を信じて望郷の歌「男の友情」、「あの娘が泣いている波止場」、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」など作曲し、大ヒットを連発する。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録し、戦後歌謡界を代表する作曲家の一人となった。夢を持ち続け、それを信じて努力してゆけば道が開けたという好例でした。