国策に翻弄

日本の歌手、女優、政治家である。さまざまな名前で活動し、戦前の中国(中華民国)と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチの名で映画、歌などで活躍した。

山口は1920年(大正9年)、満州(現:中華人民共和国遼寧省)、奉天で生まれた。南満州鉄道(満鉄)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイの間に生まれ「淑子」と名付けられる。
 彼女は親中国的であった父親の方針で、幼い頃から中国語に親しんだ。小学生の頃に家族で奉天へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘分となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。日本語も中国語も堪能であり、またその美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)にはまんしゅうこくの国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、満洲国で大人気となった。
 また、日本でも1940年(昭和15年)に東宝から人気ナンバーワン俳優の長谷川一夫とコンビを組み映画「支那の夜」「熱砂の誓い」「白蘭の歌」の大陸3部作に出演した。三作とも長谷川の日本人青年と中国娘という設定で、パッピーエンドのラブロマンスだった。彼女が映画で、強情をはり長谷川に平手打ちを受けて、彼への恋心に目覚めるシーンがある。このときには彼女は気がつかなかったが、後にゾッとするような民族価値観の違いを教えられた。

日本では男が女を殴り、殴られた女が男の真心に気づいて愛に目覚めるという表現が成り立つ。しかし、中国人にとって映画の中とはいえ中国人が日本人に殴られるのは屈辱であり、まして殴られた中国人がその日本人に好意を抱くとなると二重の国辱と感じる。そのことに当時の日本人は気がつかなかった。

満州映画協会の二代目理事長の甘粕正彦の引き立てもあり、清朝王族の第14王女で「男装の麗人」「東洋のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた川島芳子や日本の政界、財界、軍部官僚などとの交流が時代に押し流されるように続いた。
そして終戦。彼女はそれまでの行為・行動に対して、国民政府軍から漢奸裁判にかけられる可能性が出てきた。漢奸とは、中国人でありながら国を裏切り外国の手先となった者で、最高刑は死刑である。罪状は、彼女が中国人女性として「大陸3部作」などに出演し、日本人の若者に恋する役割を演じて中国に屈辱を与えたというものだった。彼女が無罪を勝ち取るには「李香蘭は日本人である」という物的証拠が必要だった。
 これを、奉天時代の幼なじみのユダヤ系ロシア人であるリュバチカが助けてくれた。リュバチカは戦勝国ソ連の国民であるため、行動が自由で北京で収容されている彼女の父親から「戸籍謄本」を彼女に送ってくれ、無罪判決を得ることができた。まさにリュバチカは彼女にとって「命の恩人」だったが、考えれば不思議なつながりでもあった。しかし、川島芳子は「日本人である」という戸籍謄本を入手できなかったため、銃殺刑となったのだった。
 この時代、この難しい環境に育った彼女は、自分の意志で行動することができたのだろうか?すべて日本国と満州のはざまで、時代の大きな流れに押し流されながらも自分の良心に従い生きてきたひとりの女性の数奇な運命でした。しかし戦後は、自分の意思どおり行動でき、ニュースキャスターや政治家となり、華麗な生活を終えたのでした。