私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

固定相場制から変動相場制へのソフトランディング

中国大連生まれ。昭和16年東大卒。大蔵省入省。26年主計官。在米大使館一等書記官。財務参事官。交際金融局長。43年、大蔵省財務官。46年に退官。48年、東京銀行副頭取。52~57年頭取、のち会長。

柏木は大蔵省(現:財務省)きってのアメリカ通、国際金融通として知られ、初代財務官の役職は彼の才能を活かすための役職ともいわれています。早くから国際金融会議には日本側の交渉役代表として、敏腕を振るいました。

彼が財務官を退官した直後にニクソンショックが起こり、株式市場は未曾有の暴落となり、為替市場もドル売り一色。その背景には、1960年代から続いていた米国の国際収支の赤字や日本の黒字があり、世界的な国際収支の不均衡が徐々に問題化していました。ドル暴落論、世界の金融市場の大混乱が多くの経済人にいわれていました。

それまで為替は固定相場制でしたが、変動相場制に移行せざるを得なくなっていました。柏木はすでに退官しているので顧問となり、政府代表代理の資格で、米国のコナリー財務長官、ボルカー次官、IMFのシュバイツアー専務理事らともたて続けに接触し、事態収拾のための円上昇の落としどころを探っていきました。そして各国の妥協を図る最後のG10の国際金融会議が開かれたのです。

「一九七一年(昭和46年)ローマでのG10をふまえ、最終合意の場として米国が用意したのは、ワシントンにあるスミソニアン博物館。会議は十二月十七日、十八日に開かれた。通常の会議と違って、由緒ある古い建物を選んだことにも、米国の決意のほどがうかがえた。米国は盛んに二カ国交渉を展開してきており、そのため来日したコナリーは大活躍だった。米国はローマですでに、金価格の改定と、ドル切り下げの可能性も示唆していたのである。その米国にとって最大の標的は当然、円とマルクであった。
水田蔵相が腹痛で退席されたあと、米国との最終交渉は、私とコナリーの膝詰め談判となった。米国の要求は一九%の切り上げ。それに対してこちらは一五%がギリギリの線と切り返した。東京からの最終訓令は『三百十円、一六%』。私にはまだ一%の余裕があった。
コナリーが二度目に示したのは一七%。一九と一五のちょうど中間だが、東京の指令よりは超えることになる。が、コナリーの口調から、米国もかなり追い詰められていることを感じ、この辺が妥当なところであり、時機を失してはいけないと思った。最終的な合意は一六・八八%切り上げの三百八円だった。これはキリのいい数字でと蔵相が主張したためだ。
円が決まると一時間後にマルクも決着がつき、さらに三十分後にはイタリア・リラが決まって、会談はヤマを越えた」

これがうまく決着できたのも、彼がIMF(国際通貨基金)やIMC(国際通貨会議)の米国はじめ各国代表と顔見知りである以上の交友を持っており、人柄や金融知識が信用されていたからです。
日本政府は、このような人材は国家財産として常日頃から養成して置かなくてはなりません。そのため、現在は財務省の次官と同じクラスとして財務官制度を設け養成しています。この財務官が、国際金融のプロとして日本側交渉代表で国際会議では活躍しているのです。


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