湯浅は、GSユアサバッテリーの前身となる湯浅電池製造を設立した人物である。
彼は明治39年(1906)京都府に生まれ、昭和5年(1916)に京都大学に入学するが、実家の危機に際し中退し、家業の湯浅七左衛門商店(湯浅金物、現:ユアサ商事)に月給20円の見習い生として就職する。
まず、学卒で理想を求めていたため、青年店員を集め「啓発会」を作り、「○○どん」という呼称をやめさせ、日曜、祝祭日の休日を実施するなど、社内改革を推し進めた。
旧家のしきたりを重んずる両親とは対立するが、その反対を押し切って結婚もし、妻と一緒にキリスト教の洗礼も受ける。また、世田谷に会社の独身寮を造り、人材を育てるため、自らは舎監となり、妻を寮母として青年たちと話し合いを続けた。昼は副社長、夜は舎監として、24時間体制で青年たちと話し合いを行なったことなどで過労がたたり、ついに入院することになった。そのとき、父親の怒りが爆発した。
昭和16年(1941)3月16日、入院中の彼に内容証明付きの速達書留が届く。その内容は「湯浅金物副社長罷免、株主権剥奪」とともに「湯浅寮閉鎖及び売却処分と寮生47名の解雇」を告げる、驚くべきものだった。
さらに、社長・副社長制を廃して専務制とし、父親は相談役として実権をふるう、また別に湯浅総事務所を創設して父親が家長として君臨する体制にした。それは彼にとって、今までの言動に対する父親からの強烈なしっぺ返しであった。
しかし彼は、健康を回復したあと、湯浅電池で再び専務兼舎監として日夜努力を続けた結果、生産量4倍半の実績を上げて会社に多大の貢献を果たし、病床の父親からもようやくその実力が認められた。後年、その苦しかった当時を振り返って、次のように助言している。
「家業の近代化に大きい貢献をした父だが、私の理想主義と相いれなかったのは前に述べた通りである。四人の子供のうち、ただ一人生き残った長男の私を入院中に罷免するほどのことをした父は、私が相変わらず主張を貫いて世に認められていくのを、どんな思いでみていただろうか。恐らく病床の父の胸には、無量の感慨が去来したに違いない。
親を見返してやろうと、精一杯がんばってきた私も、父の死で心の張りを失い、あらためて父子のきずなの強さに思い至ったのである」
38歳の彼が健康回復後に気を取り直し、勤労部長・青年学校長など経験から労使関係の困難な仕事にも人一倍誠意をもって取り組んだため、人心の掌握と社内融和に成功したのでした。
これも「父親に負けまい」という、親子の絆の強さゆえのガンバリと思えます。
しかし、父親が晩年の病床にあったとき、一度谷底に突き落とした息子が逞しく這い上がって成長するのを見て、口には出せないが「悪かったな。でもよく辛抱した」と思っていたに違いない。
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