私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

克己心(竹踏み)

 石川は初代経団連会長・石川一郎の六男として大正14年(1925)東京で生まれる。昭和23年(1948)に東京大学を卒業後、運輸省(現:国土交通省)に入省するが、同30年(1955)国鉄を退社。鹿島守之助の二女の婿となり、取締役として鹿島に入社する。社長、会長として原子力発電所、超高層ビル、名神高速道路など大型受注を推進した。また、日本商工会議所の会頭としてもリーダーシップを発揮した人物である。

 彼はスポーツ好きで、小学校の運動会ではいつも代表選手になっていた。しかし、小学6年のとき、結核の前段階である肺門リンパ腺炎にかかり、いっさいの運動が禁止された。
 中学校に入っても胸の病気が悪化し、欠席気味だった。中学1年の3学期から2年の2学期半ばまで休学しなければならない、重症であった。
彼にとって、問題は病そのものより、学校に復帰したあとだった。数学の授業に出てもさっぱりわからないし、休んでいるあいだに代数はどんどん進み、ついていけなくなっていた。その結果、2学期の通信簿は数学だけ落第点になっていた。
そのとき、石川はつくづく思った。「結局、誰も苦境に陥った自分を助けてくれない。母親やまわりのみんなが看病してくれるし、医者も診療してくれる。しかし、それは支援であって、自分自身が病気を治すという強い意志をもち、なすべき努力をしなければ回復しない」と。
 そこで健康時でも、体を強くしていないといつ病魔に襲われるかわからないと気づき、次のように決心する。

「体を鍛えよう。家で体操を始めた。簡単な内容から徐々にきつくし、腕立て伏せや縄跳びをするようになる。夜、はだしでテニスコートを走った。寒くても欠かさなかった。体が良くになるにつれ、勉強も身が入る。中学三年で皆に追い付き、四年になるころには、数学をはじめ成績はトップクラスに戻っていた。
今でも私は毎朝、体操をする。病気だとか早朝に急用があるかということがなければ、寝床から始めて一時間はする。竹踏みも千回だ。
中学での大病と数学の成績悪化を経験し、私は生涯を通じて自己を律する指針を得たように思う。『克己心』が人間にとっていかに大事かを身をもって知った。今でも座右の銘にしている」

 彼は中学生のとき、「健康は自分で守るもの」と気づき、誰にも相談せずに「なすべき努力をしなければ回復しない」と自分の体を鍛え始めたといいます。この気づきが再出発点です。
 すぐれた人は意志が強く、自分で決めたことは徹底して継続します。その一つが晩年でも毎日1000回の竹踏みでした。この数字は半端ではありません。「自分の健康は自分で守る」という気迫の感じられる数字です。


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