人生の苦しい経験が生きる

安藤は1910年に台湾で生まれ、1934年に立命館大学専門部を卒業する。1948年に株式会社中交総社(のちの日清食品)を設立する。実業家、発明家。日本で「チキンラーメン」と「カップヌードル」を開発し、世界的に普及したインスタントラーメン産業の創始者となった。日清食品の創業者。「チキンラーメン」「カップヌードル」を発明・開発したことにより、食文化に大きな革新をもたらした人物である。

 彼は幼い頃に両親を亡くしたため、日本が領有していた台湾で呉服商を営む祖父母に育てられた。小学校を卒業と同時に祖父の仕事を手伝い、その後図書館の司書になったが、事業を興したいという野心にかられ2年で退職、22歳のとき台北市にメリヤス会社を設立して大阪に問屋を設け、メリヤス製品を仕入れて販売、大当たりした。
また、プレハブ住宅に機材販売、エンジン部品の製造なども一応の成功を収めたが、軍用機のエンジン部品工場では、国から支給された部品の横流し疑惑が原因で、憲兵隊本部へ連行され拷問や自白を強要された。
しかし、やがて無罪が証明されて釈放されたものの、戦災により彼が手がけた事業はすべて灰塵に帰してしまった。

戦後は製塩業、栄養食品開発と食に関係した仕事に切り替わっていった。それは、昭和20年代の深刻な食糧不足をしのぐために、日本政府はアメリカ合衆国から送られる援助物資に頼っていたが、そのほとんどがアメリカの余剰小麦を利用した「粉食」(パン、ビスケットなど)だった。日本の厚生省は「粉食奨励」を政策として進め、学校給食をはじめ、パン食を奨励していた。
彼は、古くから東洋の食文化であるめん類をもっと奨励すべきだと、当時の厚生省に提案した。「パンには必ずスープやおかずが必要だが、麺類なら同じどんぶりの中に主食の麺にスープと具材が付いて栄養もある」と主張した。
厚生省の担当官からは、「うどんやラーメンは量産技術が無く流通ルートも確立していないためやむなくパンが主体になっている」実情を説明され、麺文化の振興のために、彼自身が研究してはどうかと奨められたことが念頭に残っていた。
昭和22年頃の街ではまだ、栄養失調で行き倒れになる人が後を絶たなかった。冬のさなか焦土と化した大阪・梅田の闇市で、ラーメンの屋台にできた長い行列があった。寒さに震えながら順番を待つ人々を見て、たった一杯のラーメンのために、人はこれほど我慢するものかと興味を持ったのだった。
46歳のとき簡単なラーメンづくりを取り掛かるのは今だと思いついた。しかし、関与していた信用組合の倒産により、理事長だった彼は責任を負い、また無一文になったが奮起した。

彼は部下もいなければ、カネもないので一人で取り組むしかなかった。昔なじみの大工さんに頼んで、庭に十平方メートルほどの小屋を作り、研究所とした。中古の製麺機、直径1mもある中華なべ、小麦粉、食用油などを買い、準備を整えた。
開発したい「着味めん」の目標は①おいしくて飽きがこない味、②台所に常備される保存性、③調理に手間のかからない簡便性、④値段が安いこと、⑤安全で衛生的なことの5つである。彼は「めんについてはまったくの素人」だったため、原料の配合から味付けまで、作っては捨て、捨てては作るの手探りで進めた。しかし、難題は保存性と簡便性だった。
 これも何度も試行錯誤の末、妻が天ぷらを揚げているのを見て気がつく。小麦粉の衣が油の中で泡を立てて水をはじき出し、無数の穴が開いていた。めんを油で揚げれば多孔質になり熱湯を注ぐだけで水分が吸収されて柔らかく復元するし、ほぼ完全な乾燥状態になって保存も利く。この発想が即席めんの製法特許「瞬間湯熱乾燥法」の開発となった。
彼は朝5時に起きると小屋にこもり、夜中の1時、2時になるまで研究に没頭した。睡眠時間は平均4時間しかなかった。こんな生活を丸一年の間、一日も休みもなく続けた。この即席めん開発が成功したとき、彼は48歳になっていた。そして次のように述懐している。

振り返ると私の人生は波乱の連続だった。両親の顔も知らず、独立独歩で生きてきた。数々の事業に手を染めたが、まさに七転び八起き、浮き沈みの大きい人生だった。成功の喜びに浸る間もなく、何度も失意の底に突き落とされた。しかし、そうした苦しい経験が、いざという時に常識を超える力を発揮させてくれた。
 即席めんの発明にたどり着くには、やはり48年間の人生が必要だった。

いやぁー、このねばり、このチャレンジ心、この謙虚さ、ほとほと頭が下がります。彼は「48年間の苦しい人生経験がこの事業を成功させた」と書いています。成功もあれば失敗もあり失意の底も経験されている。それを貴重な経験として晩年からの新事業に取り組まれた彼の渾身の努力の前に、神様が微笑むしかなかったという感じでした。