私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

一定の節度が必要

 砂野は川崎造船所、川崎航空機、川崎重工業の川崎系3社の合併を果たした人物として記憶されている。
砂野は明治32年(1899)京都府生まれで、大正15年(1926)に京都大学を卒業する。昭和2年(1927)川崎造船所に入社し、労務畑を歩むが、同17年(1942)、川崎航空機に転出。
 同34年(1959)川崎重工業に専務で復帰したのち、昭和36年(1961)に社長に就任するが、その前後に3回合併に失敗したことを悔やんでいた。しかし、昭和37年(1962)ごろから海運市況も立ち直り、内外船主の新型造船意欲が急に盛り上がってきたため、失敗の教訓を活かして新造船所の建設や合併の推進などを行ない、大きく業績を伸ばすことができた。
 M&Aは事業の強化や補完を短期に成し遂げるので便利だが、両刃の剣でもある。昭和14年(1939)に山下汽船が大阪商船と組んで、川崎造船の株式を取得し、「日本の海運界に君臨せん」と企てたことがあった。
 そのとき、砂野は川崎造船にいて、当時の幹部と一緒に猛反対の運動を起こし、最終的には白紙に戻した苦い経験もしている。
 その際、砂野が痛感したのは、合併の成否は幹部の十分な了解とともに、従業員がこれを支持するか否かにかかっており、無理すれば人心の荒廃を招き必ず不測の災厄が生ずることであった。
 M&Aが終わったあとの企業価値を考えて、被買収企業の財産価値(経営資源)を減じないように配慮した、節度ある行動が望まれると次のように語っている。
「当時は株式を保有すれば当然経営権は移転するというのが常識であり、買占め側にも他意はなかったと思うけれども、時まさに臨戦体制下であり、川重側の再三の買戻し希望を無視して事を行なわんとしたところに無理があり、不純さがあった。当時の前社長、平生釟三郎さんなども理性の人であったから株式を取られてしまったのでは仕方がないとあきらめておられたようであった。
 私がここに、この不快な記憶を書きとどめんとする理由は、いかなる時代であっても経営権を取得するには一定の節度があり、権力にものをいわせて無理押しするがごとき手段ではとうてい成功しないし、また一時成功したとしても長い目で見れば不成功であることを、人々に知ってもらいたいためである」(『私の履歴書』経済人十二巻 306p)
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 最近の内外のM&Aを見ると、ライブドアによるニッポン放送事件、外資ファンドによる小糸製作所、カゴメ、アデランス、サッポロビールなどの事例がありました。
 資本の論理だけで合併を進めようとする風潮もありますが、砂野の発言はこれに警鐘を鳴らすものでしょう。

 幾多のM&Aを成功させ、日本電産グループ企業を成長させ続けている永守重信社長のような例もありますから、これを成功させるのは最終的には「トップの経営力」につきます。
 しかし、M&Aは買収後に被買収企業の財産価値(経営資源)を減じないよう配慮した友好的なM&A交渉が望まれます。


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