私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

ピッチングマシーン

 1937年、大分県生まれ。1956年西鉄ライオンズに入団。西鉄の大黒柱として3年連続の日本一に貢献。「神様、仏様、稲尾様」とあがめられた。1969年現役引退。以後、西鉄ライオンズ監督、中日コーチ、ロッテオリオンズ監督を歴任する。1993年野球殿堂入り。

 稲尾はバッティング投手として採用された。手動式練習機(ピッチングマシーン)と陰口を叩かれながら主力の中西太、豊田泰光、高倉照幸などを相手に毎日300球~400球も投げた。
 これは下積み時代のシゴキとしか言いようがない。ストライクばかりでは人によっては「疲れるではないか。3球に1球は外せ」と叱られる。ボール球も1球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、制球力を磨いた。この過酷な練習から帰ると宿舎の二階までの階段が上がれないほどへとへとになっていたという。
 しかしこの制球力が彼の最大の武器となり、のちの長嶋との対決でも効果を発揮する。それは読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズで、第1戦を彼で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、監督は彼を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。降雨による順延で中一日をはさんだ第4戦、三原監督は彼を三度目の先発投手に起用してシリーズ初勝利したが、彼はそれまでの長嶋には打たれたこともないコースを打てるはずのない崩れたフォームで打たれていた。味わったことのない恐怖感を覚えていた。そのとき開き直って次のように書いている。

「相手が感性で来るなら、こちらももう理屈はやめだ。感性で勝負するしかない。0勝3敗で迎えた1958年の日本シリーズ第4戦。長嶋封じに、いちかばちか奥の手を使うしかなかった。ノーサインで投げるのだ。瞬間芸の勝負。こちらがモーションを起こすとさすがの長嶋さんにも微妙な気配が生じる。踏み込んで来たら、テークバックで握りを変え、スライダーからシュートに、あるいはコースを切南海の野村捕手のようにり替える。引っ張りにかかる気配がしたら、その瞬間さっと外に逃げるのだ。この感性勝負で長嶋さんに勝った。三飛」

  彼はこの霊感投球とコントロールの良さで自信を得た。第5戦でも彼は4回表からリリーフ登板すると、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。そして舞台を再び後楽園球場に移しての第6・7戦では2日連続での完投勝利で、西鉄が逆転日本一を成し遂げた。彼は7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊ったのだった。若い日に強打者を相手に毎日300球~400球も投げた苦しい経験が役立ったのだった。

*このシゴキの項では、名選手の好例を3つ取り上げたが、現在では少子化で社会背景が違ってきている。体育系のクラブも指導方法を変えていかざるを得なくなっている。また、会社に入ってくる新入社員も「怒られるのが嫌」で「常に褒めて仕事を教えないとダメ」となっています。
今年(2017)の箱根駅伝で3年連続の優勝をもたらせた青山学院大学の原 晋監督は「強いチームのつくり方」で次のように語ってくれています。

「選手個々に目標を設定させるだけでなく、ランダムで5、6人のグループをつくり、目標管理ミーティングを行っています。
ランダムにする理由のひとつは、学年、レギュラー、控え選手、故障中の選手、その区別なくグループをつくることで、お互いの目標を客観的に見直せるからです。それによって、より達成可能な目標を設定できるようになります。
もうひとつの理由は、チームに一体感が生まれるからです。主力選手だけ、故障中の選手だけのグループにすると、どうしてもチームが分断されます。それぞれの立場で、それぞれの思いを知ることで、はじめてチームとしてまとまります。」

ここにはシゴキのイメージは全くありません。選手に自主目標を設定させ、グループで目標管理ミーティングをさせています。あくまで自主的な自己管理です。このような人材育成が行われる現状に時代の変化を感じ、「時代は変わった!」と目を見張る思いです。


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