私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

ヒラ社員に降格

八尋は、社長・会長の在任中はイラン革命、イラン・イラク戦争の勃発で暗礁に乗り上げた日本・イラン合弁のイラン・ジャパン石油化学プロジェクトの処理に奔走し、清算を決断した。また、商社出身者として初めて経団連の副会長を務めた人物である。

大正4年(1915)東京生まれの彼は、昭和15年(1940)、東京商科大学(現:一橋大学)を卒業し、三井物産に入社する。終戦はサイゴンで迎えた。
昭和25年(1950)、ゴム貿易の自由化を迎え、財閥解体で分割された第一物産(現:三井物産)神戸支店のゴム課長に就任。神戸はゴム工場が多く、ゴム商売の中心地で、ゴム取引所もできたばかりだった。
「ようもうけるな、八尋くん」といわれるくらい活躍したが、調子に乗りすぎて大失敗をしでかす。
昭和29年(1954)、生ゴム100トンを買ったところ、相場が半値にまで暴落し、大損を出してしまった。損失を取り返すべく、必死に挽回のチャンスを狙ったが損の上塗りばかりで、心労のため血尿が出る日々をすごすことになった。
このとき、実はこの損失が表面化する前に本社物資部ゴム課長への栄転が内定しており、トントン拍子の出世コースの階段を昇ろうとした矢先の出来事だった。
結局、水上達三常務にこの失敗を報告して陳謝したが、間もなく〝位冠剥奪〟でヒラ社員に降格された。
業務部預かりの身で、新人並みの電信整理が1日の仕事になった。屈辱の灰色の生活は6か月間続いた。水上常務は廊下ですれ違った八尋に、「底値鍛錬百日だよ、きみ」と秘かに力づけてくれたという。「しがみついていれば、いつか必ずチャンスが来る」との意味だと理解する。
そこで彼は、「時期が到来して敗者復活の機会が巡ってきたとき、それを自分のものにできるかどうかで、その後の人生は180度変わってしまう」と考え、努力を続けた。
そしてついに、その時が来た。まず、輸出化学品課長代理に任ぜられ、降格から2年ぶりに化学部に新設された石油課長で大活躍することになる。
彼は当時を振り返り、何事も粘り強く、あきらめない、そうすれば道は必ず開けると気づきを与えてくれた水上常務に今も次のように感謝している。

「私にチャンスを与えてくれた人はだれあろう、水上達三さんその人だった。『どうだ、まいったか』―。この言葉は一生忘れまい」(『私の履歴書』経済人二十七巻 48p)
*          *
私も不本意な降格人事を経験したことがあります。入社20年目に、花形だった営業部から地味な総務部に異動になりました。
職位は、部長職の支店長から本社総務部総務課長です。外部から見ると総務次長の下になりますから、2ランク下がったことになります。
営業担当役員が「おまえの将来を考えてこの人事を認めた」と言ってくれましたが、「いままでの自分への評価が今回の人事ですから、不本意です」と大いに不満をぶちまけました。私は営業が大好きで、それなりの実績も上げていましたので、この人事が不満ですっかりやる気を失くしてしまいました。
課長席に坐って業務上必要な会社の諸規則や過去の重要契約文書の点検をしていても、まったく頭に入ってきません。楽しかった営業時代の思い出ばかりが蘇ります。
午後からの諸法令の勉強会で、眠くてついウトウトし、副社長から「こらぁー、居眠りしている課長がいるぞ!」と大声で叱られるなど、意気消沈の毎日が続きました。
こうした悶々とした日々を送っていたある日、以前上司だった社長とトイレで隣り合わせになりました。「あまり元気がないな。おまえのことを心配していたんだ。慣れない仕事で大変だろうが、会社で重要な部署だからヘソを曲げないでやってくれ。俺はおまえの仕事ぶりを見ているから、ヤケを起こさず頑張れ」と言われました。
「そうだ。自分を見てくれている人もいるんだ。自分が怠けると、そのツケは必ず将来自分に返ってくるはずだ。こころ入れ替えて一から出直そう」と決心したのです。
「何事も粘り強く、あきらめない、そうすれば道は必ず開ける」と気持ちを切り替えたことにより、総務部の重要性がよくわかるようになりました。
それは弁護士、警察、他社などの交渉ごとや、取締役会や経営会議の議題がすべてわかるため、支店長時代では知り得ない会社全体の動きや重要課題に関与できることでした。
総務部の重要性がわかると、その職務をまっとうするための勉強をしようと考えます。そのため、商法(現:会社法)や証券取引法(現:金融商品取引法)など、重要な諸法令を勉強するのも苦にならなくなりました。
人間、不思議なもので、気持ちの持ち方で苦労が楽しみに変わったのでした。


Posted

in

by

Tags: