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静岡県生まれ。1940年東京商大予科、学徒出陣、大竹海兵団に入隊。特攻隊員となるが出撃直前に敗戦。46年東京商大卒、兼松入社。80年に社長、会長。絵画、短歌などの趣味人。
鈴木が2度目のニューヨークに駐在中、日本経済の復興と共に国威も回復してきた昭和46年9月、海上自衛隊の練習艦2隻がニューヨークを訪れました。
当時、彼が日本人クラブの教育委員長をしていたことから、日本人学校の子供たちとともにその歓送会に出席したのです。
頼もしげな士官候補生たちと歓談のあと、いよいよ出港となり、「蛍の光」とともに艦は岸壁を離れてハドソン川を下っていきます。彼は何か未練が残り、「よし、もう一度見送ろう」と河口まで行くことにして車で先回りしました。しばらくの後、2艦がやってきた時の行動は・・
「とっさに私は、手にした歓送の小旗2本で手旗信号を送った。『ガンバレ、ガンバレ』。すると先頭艦の艦橋から突如探照灯がまばゆく点灯、私と家内を照らした。と同時に発行信号が始まった。パッパッパ……、目を凝らすと『ミ・オ・ク・リ・シ・ヤ・ス』(見送り謝す)。
艦橋には一列に並んだ白い制服の登舷礼。私は夢中で旗を振り続ける。涙が頬を伝わる。横を見ると家内のほおも涙で光っている。土浦での通信訓練がようやく役立った感激の一瞬であった」
戦後まもない異国での海上自衛艦の見送りに郷愁もあり、ひときわ感慨深いものがあったと思われます。
筆者も2009年11月に、オーストラリアのパースに近いフリーマントル港から南極に向けて出航する、南極観測船「しらせ」を見送ったことがあります。たまたま旅行でその地にいたのですが、船のご厚意により、艦内を特別見学させていただいたことから名残が惜しく、翌日の出航を見送ることにしました。その場所には、地元のゆかりの人たちや隊員の家族・親戚たち200人ぐらいが来ていました。
3段ある甲板すべてに白い制服の自衛隊員と紺制服の南極隊員や報道関係者および日立、東芝など観測機器納入技師などが勢揃いしてくれていました。見送る人たちが「お元気で」「頼むぞ」「また会おう」と大声で叫び、小旗を振ると、大きく帽子を振り答礼。
船が岸壁を離れ、ボーォと汽笛を鳴らせば、速度が上がってたちまち大型船の姿も小さくなっていきます。でも、岸壁の人は日の丸を、隊員は帽子を振り続けていました。
パース駅やロッドネスト島で会った隊員たちは礼儀正しく、好感の持てる人たちばかりだったため、「その人たちの無事や成功を祈る気持ち」で一杯になり、みんな目を真っ赤にして見送ったという経験があります。
異国における日の丸と同邦人との別れには、特別の感慨が湧くものだと思い知ったのでした。
話は変わりますが、「私の履歴書」にはご当人の結婚の話もつきもので、多くの人が照れくさそうに披露しています。プロポーズを28回行った某新聞社の実力者の武勇伝も有名ですが、鈴木も見合い7回のツワモノでした。そんな彼が、ついに白旗をあげるシーンがなかなかいい。
「おばさん」と親しく呼んでいた友人の母君から「どう?」と尋ねられた。当時は八等身という言葉が流行っていたので、それを頭において「少し太めでは……」と言った。ところが「よくお聞きなさい。女には三張りと言って、目の張り、胸の張り、腰の張りです。これが一番大事なのよ、あの方はそれがそろっているのよ」とすごい剣幕で怒られた。
私が口をモグモグさせながら「でもちょっと張りすぎでは……」と言った途端、おばさんの雷が落ちた。「お黙りなさい。あなたの顔を鏡に映して、見てきなさい」
彼はギャフンとなり結婚を承諾したと告白しています。のちのち「女の三張り論」の真偽を多くの人に確かめたそうですが、誰もご存知なかったとのこと。
ともあれ、彼の奥様はこの箇所が新聞に載ったとき、どのように反応されたのでしょう。何もなかったとは考えにくい、と思うのは筆者だけでしょうか。しかし、筆者もこの珍説を拝借して、酒宴をよく盛り上げていたものでした。
「女の三張り論」、今日この頃は、時と場をわきまえないと、ちょっと危険な話材ですね。