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本州製紙社長(現王子製紙)のち会長。包装界に対する多年の功績を記念して「木下賞」(3部門)が創設されている。明治22年(1889)、愛知県に生まれ、大正5年(1916)東大を卒業し、王子製紙に入社する。そして9年(1920)、樺太に赴任して終戦まで一貫してパルプ生産に従事する。そして戦後シベリアに4年半抑留された経験を持つ。
木下が社長として樺太(現・サハリン)に赴任していた時、春を知らせるのはニシンの群れでした。五月の末にから六月にかけて、土地の人が“にしん日和”というどんよりした日に、にしんはやって来たという。彼が大泊で最初にそれを見たときは、そのすさまじさに一驚した。その驚きを次のように表現している。
樺太の人はそれを「にしんが群来(くき)てきた」と言ったが群れが押し寄せると、海面が見渡すかぎりぶくぶくとあわ立ち、雄が卵にかける精液で海が真っ白になる。漁師が網を入れて引くと、網の目に卵がびっしりとくっついて、水がもれないほど。子供たちは波打ちぎわでにしんを手づかみにする。要するに海岸一帯がにしんで埋まってしまうのである。
そういうときには網越しといって、網を引いているところへ大きな箱を積んだ馬車がジャブジャブはいってきて、とれたにしんを箱の中にほうり込み、いっぱいになると干し場に運ぶ。干し場にはほうかむりして目だけ出した女たちがいる。出かせぎの“かずのこ抜き”だ。山のように積まれたにしんは、片端から腹をさかれ、黄色いかずのこは次から次へと袋に詰められていく。一袋いくらで働いているのだが、一シーズンの彼女たちのかせぎは、かなりの額に上ったそうだ。その季節になると、町は道といいわず軒下といわずどこへ行ってもにしんだらけ。町中にしんのにおいで充満した。
いやぁー、凄い風景ですね。子供たちは波打ち際でニシンをわしづかみにする。大きな箱を積んだ馬車がジャブジャブ海に中に乗り入れて、獲れたニシンを箱に放り込むのですから。まるで戦場のようです。人の大声や馬のイナナキが行き交っている風景です。
町中の人たちが総出でニシン漁に関わっている。これがひと月ほども続くのでしょうか?これは楽しみでもあり、家計の足しにもなるのですから大きな年中行事の一つでしょうね。
私が昭和25年(1950)ごろの子供のとき、数の子はどんぶりに入れて出してもらっていました。ニシンが獲れすぎて、ニシンも数の子も肥料にすると聞かされ驚いていたものでした。遠い北海道のにしん豊漁のシーンはどのようなものかこれでわかりました。