私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

だれが選んでくれたのでもない

新劇の女優。築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残し、多くの演劇人の目標になった人である。

1906年、広島生まれ。山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家を目指し上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗する。広島に戻り広島女学院で音楽の代用教員をしていた。
しかし、もっと音楽の勉強がしたいという気持ちがあり、築地小劇場(俳優座の前身)の旅芝居を見て感動し、1927年に再び上京して、築地小劇場のテストを受けた。そのときの審査員が土方与志だった。テスト内容は、脚本の一節をいろいろ読まされたり、歩かされたりした。そして次のように審査員から宣告された。

ひどい広島なまりで、使いものになるかどうかわからないけれど、まぁ3年間ぐらい、セリフはいえないつもりで、なまりを直す決心があるなら、それにせっかく女学校の先生を棒に振って広島から出てきたのだし、音楽の素養もあることだから、まぁいてごらんなさい。

彼女はこの言葉に感激し、3年間セリフをしゃべらせてもらえないということが役者にとってどんなにつらいことなのか、皆目わからなかったので、勢いづいて「そんなこと何ともありません」と有頂天になって感謝したと述懐している。

その後、セリフのないオルガンで賛美歌をひく女の役や「その他大ぜい」の役をやりながら広島なまりを直すことに専念する。そこには寂しさ、悲しさ、貧乏がついてまわったという。
しかし、標準語を話せるようになった1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作「女の一生」の「布引けい」は当たり役となり、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた。
作中の台詞 “だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの-” は、生涯”女優の一生”を貫いた杉村の代名詞として有名である。
そのほか『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)、などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作となり、日本演劇界の中心的存在として活躍した。
彼女の演技力は多くの演劇人の目標であり、共演者のステイタスでもあるため共演を熱望された。この「履歴書」に登場する芸能人は、俳優では長谷川一夫、女優では彼女が共演で一番多く名前を挙げられていた。


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