私にとって日経「私の履歴書」は人生の教科書です

いつも温かい手が

ウィーン国立歌劇場音楽監督などを務めた世界的な指揮者である。主な経歴は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ボストン交響楽団音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、新日本フィルハーモニー交響楽団名誉指揮者など。
小澤は1935年、満洲国奉天市(中国瀋陽市)生まれる。1951年、成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学し、1957年夏に同短期大学を卒業する。
 彼は音楽をやるなら外国へ行って勉強したいと思うが、しかしその金もない。桐朋の友人たちは次々と外国に留学していく。ジリジリしながら留学できないか八方手を尽くすが、はかばかしい答えがないまま、時間だけが過ぎていった。そこに彼の才能と人柄を見込んだフジサンケイグループ総帥の水野成夫、日興証券会長の遠山元一、三井不動産社長のエド英雄らから資金や乗船券、スクーターなどを支援してもらい、24歳で欧州に単独バイクの武者修行に出かける。
 現地での窮状の際も、そこに来られた作家の井上靖、評論家の小林秀雄、彫刻家のノグチイサム、流政之など有名人が影に日向に応援している。これには彼の父親の人脈も大きく影響しているが、彼の人徳でもある。

1959年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位となると、ヨーロッパのオーケストラに多数客演することができた。そして、カラヤン指揮者コンクール第1位になると指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事できるようになった。また、同時期の1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任し、指揮者のレナード・バーンスタインにも師事が許された。
この成功と名声で1962年日本に帰り、NHK交響楽団を指揮することとなった。しかし、彼の未経験のブラームスやチャイコフスキーの交響曲を指揮するため、慢心もあり経験不足を露呈する。N響の楽団員の反発もあり、N響から演奏を拒否され、解雇となった。彼がショックで精神的に落ち込み、悲嘆に暮れていたとき、彼を応援してくれている人たちが「小澤征爾の音楽を聴く会」を日比谷公会堂で開いてくれた。その時の様子を次のように語っている。
 
 発起人は今でも信じられない面々だ。浅利慶太さん、石原慎太郎さん、一柳彗さん、井上靖さん、大江健三郎さん、武満徹さん、團伊玖磨さん、黛敏郎さん、三島由紀夫さんたち。音楽に関係ない人も大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きでお世話になった水野成夫さんが作ったオケだ。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない。

 この感謝の気持ちからこの後、決意を新たにして再び渡欧し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉団員、ボストン交響楽団音楽監督など華々しい実績を上げ世界の指揮者として評価されるようになった。これも日本の有力者に限らず巨匠で師のカラヤンやバーンスタインらの実力者の引き立てがあり、多くの人の力が彼の支えになったからだ。しかし、そのようになったのも彼の才能と人柄が素晴らしかった証拠だと思えます。


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